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新自由主義──「競走」を煽る「競争」しない思想

 自由競争でいろいろやらせてみて、その中からよいものが育つことを期待する。そういわれると、とりあえず競争ってのは良いものと思われる。しかし、競争とは、すべて一様に競争であるのだろうか。考えてみる。


 一般に、目的が定まった後で、その目的を効果的に達成できる効率的な手段というものが定まる。とすると、競争は二つのレベルで行われる。諸々の目的──価値──の間の競争と、ある目的が選択された場合にそれをもっとも少ない資源で達成する方法を探す競争である。前者を目的間競争、後者を向目的的競争と呼ぶことにしよう*1。「競争」と「競走」と言ってもいいかもしれない。ともかく、このうち市場に委ねることができるのは、後者、向目的的競争だけである。これを市場に委ねるのは簡単である。その目的を持つ人に金を渡せばいい。良質の介護を豊富に供給する経済を作るのが目的なら、良質の介護を大量に必要とする人に金を渡せばいい。目的さえ定まれば、それに向けた競走を発動するためには、必要な再分配を行えばよい。
 問題は、ここでは目的間の競争が行うことができなくなる、ということである。たとえば、上記目的で再分配を行う社会を考えてみよう。このような社会においては、多くの人が「介護など必要ない!介護が必要な人間は皆安楽死させてしまえばいいのだ」という価値観を持っているとしても、市場の圧力によって介護の生産に携わるようになっていくだろう。その産業に従事することが生きる手段になっていくからだ。ある目的が設定されて、その目的に沿って初期条件が配置されるならば、市場の中では目的間競争をする余地はなくなっていく。
 目的間競争はどこでするのか。それは政治のレベルで、言論のレベルで、ということになる。しかし、上記社会の中では、「介護など必要ない!介護が必要な人間は皆安楽死させてしまえばいいのだ」という価値観を表明することは危険である。なぜならば、そのような思想を持つ人間は、多くの介護事業所から雇用を断られることになるだろう。それはその人物の生活に対して破壊的な帰結をもたらすことになる。こうして、市場において労働力を売る人間は、発言する自由を失い、目的間競争は廃れていく。


 目的間競争をきちんと行えるようにするためには、目的間競争への参画が、その人の生活の基盤を奪わないことを保障しなければならない。そのためには実に多様なものが多様な役割を果たすことが考えられる。第一に、労働組合がきちんと組織されて、人々の政治への関与が経済的な不利益につながることのないように権力の均衡を演出せねばならない*2。第二に、ベーシック・インカムのような制度は、人々の発言をより自由にするだろう。他、いろいろ考えられるが、つまりは、人は生存競争から解放される度合いに応じて、発言の自由を獲得する、ということだ。生存と思想、二つのレベルの競争は、どちらかの競争が強まれば、他方が弱まる関係にある。二つの競争が重要であるとしても*3、それを両方とも強めることはできない。これを経済学ではトレード・オフと言うわけだ。「何の」競争か、が重要なのである。
 ところで、新自由主義が競争、競争と言う割には、ちっとも競争的に感じられないのはこういうことである。彼らは生存競争を煽ることによって、社会を構成する原理間の競争を摩滅させるのである。新自由主義は、新自由主義以外のあらゆる社会思想と競争する意思を持たない思想である。まったく、これ以上に堕落した思想があるだろうか*4

*1:これは、ここでテキトーに思いついた用語である。この程度のことは別に難しい話じゃないから、似たようなことは、誰かがどこかで別の言葉で言っているはず。俺は知らんけど。

*2:もちろん、労働組合もまた言論抑圧的な組織に成り下がることがしばしばあるわけだが、それにしたって選択肢は増えるし、組合を割ることも可能といえば可能だし。

*3:僕はそうは思わないが。生存競争はする必要がなく、これはなくしてよい、と考える。

*4:で、教育基本法改正も、同じ理由で問題となる。教育とは、すなわち、「競走」なのか「競争」なのか、という問題なのである。