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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

思考/存在への寛容さ/不寛容さ

 価値相対主義をめぐる一連のやり取りについてsumita-mさんからTBをいただいた。>人間学的条件、そして相対主義の話
 これを元に、少し発展させてみたい。


 sumitaさんが疑問を呈しておられるところを引用してみよう。

相対主義を「無規範主義」として批判したことなどない。というより、相対主義が主張するのはある種の抑圧的な規範であり、僕はそれを批判している。たとえば、野宿者問題において、強制排除しようとする行政に対して、スクラムを組んでテントを守るなどの抵抗をしたとする。相対主義者は、また法的に有効な手続きを経た決定にしたがっていないという意味において、これを違法、不当と言うのである。同時に、それをその内容に即して違法ではない、不当ではない、とする主張を検討に値しないものとして最初から否定するのである。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061210/p1

これがはたして「相対主義」に対する批判なのかどうかはわからない。ここで批判されている「相対主義者」にとって、法律(或いは法律を機能させる司法−行政複合体)の相対性というのは存在しない。何しろ、「検討に値しないものとして最初から否定」されるわけだから。私が理解する「相対主義」というのは、寧ろ「違法」「不当」というレイベリングを被った側にも特有の事情があることを配慮する態度である。そのような配慮の欠如こそ、「教条主義」と呼ばれるに相応しい。或いは、法律の機械的適用ということでは、「教条主義」以前のたんなる思考そのものの欠如か。

 僕が主張するのは相対主義の不寛容さであり、それに対してsimitaさんが投げかけているのは「相対主義ってのは寛容さを伴うものじゃないの?」という疑問だ。ここはまさに考えどころなのだ。これまでのエントリで示してきたように、それぞれの思想は、たとえ明示されなくても、ある具体的な誰かの生の形式に対する含意を持つ。「野宿者は放逐せよ」「野宿者の公園での居住を保護せよ」、どちらの考え方であれ、それは具体的なある野宿者の生の形式に対して含意を持つ*1。価値相対主義の寛容さとは、多様な価値の間の選別を、真理の探究としては行わない、ということである。言い換えれば、「ある誰かの存在に対して不寛容な思想に寛容である」ということだ。
 二種類の(不)寛容さがあることに注意しなければならない。思考/存在という二つのレベルがあり、思考のレベルでの寛容さは、ある誰かの存在に対して不寛容である思考に対して寛容であることを通じて、そのある誰かの存在に対して不寛容となるのである。相対主義というのは、思考のレベルの寛容さからある存在に対する不寛容さ導いてしまう。人の寛容さへの憧憬を逆手にとって侵入してくる態度、本質的に何かを隠蔽しながら近づいてくるものなのである*2


 どうして寛容さの不寛容さへの転換が起こってしまうのか。それは、私達の考え方が多様であるとしても、社会のあり方に反映される考え方は、定義上一つでしかありえないからである。だから、実践上は多様な考え方を一つの考え方に収斂させる必要がどうしても出てくる。しかし、多様な考え方の優劣を「真理の探究において」つけることはできない。ではどうするか。「価値が一人一人の人間の生に対して持っている含意」について「真理を探究する」という方法を既に捨て去っている以上、価値相対主義者はほぼ確実に手続的正義の擁護に向かうし、程度の差こそあれ、無条件の遵法義務を要求することになる。そして、手続きを経た決定がある誰かの生の形式において看過できない問題を引き起こしていても、まずは手続きを経たという事実を尊重する態度につながる。価値相対主義者がしばしば教条主義的な、教条主義以前の思考停止とさえ思われるような手続的正義論者になるのは、ほとんど理論的必然である。・・・ついでに、法哲学の教科書から引用してみる。

・・・ウェーバーやケルゼンなど、ドイツの代表的価値相対主義者の心の奥底にあったのは次のような信念であろう。私は、学問の名において、みずからの主義主張を正当化することはよくないと思うし、自分やそのようなことは決してしない。しかし、私は自分の主義主張が正しいと信じているし、その価値に奉じる決断をしたのだ。私の価値観に反対する国民もいるだろう。私は、その者たちを、学問の名においてでなく、討論によって正々堂々と説得することに努める。結果的に、私の価値観に反する法律ができて、私を拘束するかもしれない。しかし、その法律が民主的手続を経て制定された以上は、法的に有効であるし、遵法義務もある。私の使命は、その法律の反対者が増え、改正されるように説得に努めることであり、自然法に帰依することはではない。(平野・亀本・服部『有斐閣アロマ 法哲学』pp.111-112)

 もちろん、その人が「「違法」「不当」というレイベリングを被った側にも特有の事情があることを配慮する」態度を持っていることは多い。しかし、その態度は個人的な同情や共感、つまり趣味の話であり、配慮する態度を理論的にきちんと位置づけることができない、できていない。よって、配慮する態度を持つことを他者に要求できない。良心的な(人道的な?)法哲学者は悩んでいるようではあるけれど、「価値相対主義」に立つ限りは、この問題に満足のいく解答を与えることはできない*3


【おまけ・関連エントリ】

*1:野宿者ではない誰かの生の形式に対しても「含意を持たない」という形で含意を持つ。もちろん、その人の可能的な生の形式に対しては、やはり何らかの内容を持った含意を持つ。

*2:そして、隠蔽の戦略と暴露の戦略については、「運動の戦略、とか言われるものについて」で述べた。ついでに言うと、隠蔽するまでもなく、その不寛容さそのものを堂々と主張しながら近づいてくる方もおられる。幸せな人たちではある。

*3:そこで、ローティみたいに開き直る奴も出てくる。