モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

多元的社会にある多元的でないもの、補遺の補遺

 再応答が戻ってきた。>http://d.hatena.ne.jp/yuyu99/20061209/p1の末尾。
 あまり噛み合った議論ではないが、噛み合っていないことの確認もまた生産的なものである。噛み合わないという事実からのみ明らかになることもあるからだ。・・・ということを念頭に置いて、再々応答する。

 まず言葉がかみ合っていなかった。彼は、「αもβもまずは等価値とだけ述べて後の話をしないのが相対主義者。」だという。

 まず思ったのはそんな人はいないんじゃないかということ。そういう意味では僕は相対主義者ではない。ある行政の判断や、組織の判断に対して、「それはだめなんじゃないか」とか「それはよい」とか思うからだ。どちらも等価値なんて思うことはない。

 「αもβもまずは等価値とだけ述べて後の話をしない」とは、「αがよい」、「βがよい」とか述べるときに、それが基本的に趣味の問題であるとする態度のことを言う。yuyu氏が言うように、「私にとって」という話なら、誰でも何かは言うだろう。しかし、問題はそこにはない。相対主義者は、その主張が「客観的に正しい」と主張しない。そのことを批判しているのである。「私にとって」の限定付きの主張など、最初から問題にしていない。その意味で、彼は僕のテキストの主旨をそもそも読めていない。・・・しかし、それは無理からぬ話でもある。「価値の問題において客観性など最初から問題にならない」という極めて強いドグマが流布しており、彼もまたその影響下にある。僕が問題化しているのは、その疑われていないドグマそれ自体であるのだから、僕のテキストの意味を理解することは、そのドグマを疑うことと同時的である。それゆえ、そのドグマを疑わないことを前提に僕のテキストを解釈すれば、あさっての方向へ解釈してしまうのも当然である。
 彼が僕のテキストを解釈できていないことの証拠は、彼のテキストそれ自体である。というのも、彼のテキストは僕が批判する人たちのふるまいを見事なほどになぞっているからだ。たとえば、次の文。「僕は、「人がこれこれの問題を考えるべきだ」とは思わない。これこれの問題を考えないなんて嘆かわしいという態度はとらない。人それぞれのいき方があって、議論することを嫌う人もたくさんいる」。「何かを問題として扱う」、「扱わない」、これを趣味の問題としているのであり、「扱うべき」とする主張はなし得ない、と述べているのである。さらに次の文。「ホームレスの問題に対して、どっちでもいいじゃんという態度をとる人を非難しようとは思わない」。これもまた、趣味の問題としている。またまた、次の文。「法律の立場から見れば、「強制退去すべし」という立場になるし、生活者の立場から見れば「強制退去はするべきではない」ということになる」。ここでも、法律の立場から見るのか、生活者の立場から見るのかは、すべて趣味の問題となっている。
 これに対して、何かに関心を持つべきかその必要はないかは、関心を持つ/持たないことが、具体的な誰かの生の形式に対して持っている意味によって評価されるべきである。ホームレスの問題に対して取られる態度は、その態度がそこで問題になる具体的な誰かの生の形式に対して持っている意味によって評価されるべきである。法律の立場・生活者の立場どちらを選択するかは、その選択がそこで問題になる具体的な誰かの生の形式に対して持っている意味によって評価されるべきである。・・・よって、野宿者問題をはじめとして、誰かの生活のよさに関わる問題はすべて公共的問題である=すべての人が関心を持つべきである*1。野宿者の問題においては、公園を歩いて憩う人の権利よりも、そこに不可欠の生活の場を得る人の権利を優先すべきであり、そう公に主張すべきである。そして、この問題においては、生活者の立場に立つべきであり、法の立場に立つべきではない、そう主張すべきである。それが正しい。僕はそのように述べているのである。・・・というわけで、僕の批判は、yuyu氏のような人をこそ、射抜いている。射抜かれた人が気づけているかどうかは別の話ではあるけれど。

*1:ただし、事実として、時間や資源という物理的制約の問題として、「すべての」問題に関心を持つことはできない。そんなことは誰でもわかる。二つほど述べる。第一に、物理的制約は倫理的責任を解除しないので、私達は不可避的に加害者、あるいは少なくとも見殺しにする傍観者の位置に置かれることになる。このことを隠蔽してはならない。第二に、すべての問題にコミットできないとしても、何一つコミットできないことはあり得ない。コミットがゼロではないこと、そのゼロではない水準をいかに増やすかに腐心していること、これがまずは最低ラインであろう、という話は十分にできる。ゆえに、ゼロ・コミットの人間のふるまい方は、「客観的に言って」間違っている、と主張する。