モジモジ君のブログ。みたいな。

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多元的社会にある多元的でないもの

 多元的社会だと言われる。つまり、多様な価値観が互いに自己主張をぶつけあっている様のことを言っているらしい。そこでは、それぞれの価値観が等しい価値を持つかのように振る舞い、どの立場も絶対的な正しさを標榜しないことがマナーとされる。「相対主義」という言葉は知らなくとも、ここに述べたような相対主義的な態度は、教条主義者を除くほとんどの人が身につけている知的態度でもある。教条主義的態度は論外として、こうした相対主義的態度は、それに較べてどのようにマシな態度であるのか。


 生きている存在は、私を見て、そして言葉を発する。「私を見る」とはある程度比喩的な言い方であり、目の見えない人は、私の気配を感じる、その気配の方向へと顔を向ける、というやり方で、私のいる空間を、広い意味において「見る」。それは「私の(あるいは私ではない誰かの)存在を捉える」ことを意味する。同様に、「言葉を発する」もある程度比喩的な言い方であり、仮に発しないとしても、あるいは発することができないとしても、「ミャー」と泣くこと自体が、あるいはそれ以前の「顔を向ける」こと自体が、そうしたことさえもが一つの言葉として私達に向けて発せられる。最大限に広い意味での「呼びかけ」のことである。「見る」方法の多様性、その用いる「呼びかけ」の多様性、その他諸々の多様性において、私達は区別された異なる存在であるが、しかし、「見る」「呼びかける」存在としての形式において一致している。他者とは、一言で言えば、私と同一の形式において異なる内容を持った存在である。いかに多元的な社会であろうとも、つまり私達の思想がいかに多様であろうとも、私達のそれぞれのその形式においてはまったく多元的ではない。*1

 ここで、次のような具体的な問題を考えてみよう。たとえば公園に居住する野宿者たちの強制排除が行われることは、それが法的に適切な手続きを経てその権限を与えられた者たちが粛々と実行する際には、それは適法である。しかし、それを「不当」と、私たちは言うのである。そこにいかなる根拠があるのか。「ここを追い出されたら一体どこで暮らすのさ」という問いが答えられずに放置されているという事実が根拠となるのである。これはつまり、私達が肉体を持つという意味においてまったく多元的ではなく、そこで追い出されるその野宿者も同様に肉体を持っており、寒ければ寒く、暑ければ暑く、乾くときには乾き、それが高じれば死んでしまいさえする存在である──それがその野宿者であるその誰かの、あの誰かの、生の形式である──という事実が、強制排除という措置を「不当」であると証すのである。


 ある思想は、その思想がこの生の形式に対して持っている含意において評価されるべきなのである。言い換えれば、その手続きの適法性によらずその内容において正しさを主張する者たちを、「多元的社会に済む者として最低限の抑制も知らない教条主義者」のごとく扱う人々が見損なっているのは、私達の生の形式である。ある判決は、そこで取り扱われている誰かの生の形式に沿っているがゆえに支持されるのであり、別の判決は沿っていないがゆえに支持されないのである。そのようなやり方で「そこに生きている人」を見ることを通じて法を批判する人がいるからこそ、そうした人たちとの間の緊張においてのみ、法は人の生を支えうる重要なシステムとして機能しうるのである。こうした抑制を欠いたとき、法はただの暴力装置となる*2
 生の形式と無関係なドグマを立ててそれに拘泥するのが教条主義者であるならば、すべてのドグマをドグマとして退けるのが相対主義者である。どっちも同じくらい有害無益と言っていい。私達は、私達の一人一人が持つ生の形式に着目して、その上で規範を考えるべきなのだ。*3

*1:以上は、(僕の考えるところでは)レヴィナスが取り出した形式である。また、ここで形式という言葉を用いる際には、ウィトゲンシュタインの「生の形式」という言葉を想起している。他にもデリダドゥルーズ、あるいはベルグソンら大陸系の哲学者が様々なやり方で生の形式を探究しているように思われる。

*2:法は常に暴力装置である。しかし、「ただの」暴力装置とそうではない暴力装置の違いは無意味ではない。むしろ、法について考えるべきことが何かあるとすれば、この違いを考えることにのみあるのである。

*3:このような第三のタイプの人たちを何と呼べばいいだろうか。形而上学者と呼んでもよいし、合理主義者と呼んでもよい。しかし、何と呼ぶにせよ、そこに込められる内容は既に述べたとおり。