モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

支援とは何か──生活保護・母子加算廃止問題をめぐって

 dojinさん、2006-12-05 - 研究メモより。

・・・mojimojiさんの議論の軸はしっかりしていて、それは一言でいえば、「就労インセンティブの議論と生活保護で保障すべき最低水準の議論は区別できるし、区別しなければならない」というものだ。問題はここでいう「保障すべき最低水準」とは何か、というものだ。

 「保障すべき最低水準」を「潜在能力」としてみたときに、例えば後藤氏はそこに「就労意欲、コミュニケーションへの意欲」といったもの(ある種のやる気)を含めていて、その場合には、「就労インセンティブの議論と生活保護で保障すべき最低水準の議論は区別できるし、区別しなければならない」が成り立たない。・・・とdojinさんは続ける。僕の立場は、そうしたある種のやる気のような、その人の内面的なものを潜在能力に含めるな、というものだ。それは忌避されるべきパターナリズムでしかないからだ。少なくとも、この場合には。以下、述べる。


 もちろん、パターナリズム一般を完全になくしうるとは僕は思っていないけれども、それでもここで「ある種のやる気」をアプリオリに良いものとしてしまっているパターナリズムは、もう少し改善の余地のあるパターナリズム、批判されるべき過剰なパターナリズムだ。・・・たとえば、私たちが今、生きている日本社会に関して言うならば、そこで「労働現場に留まることのできる力」は、「不当な要求を不当だと認識できない力の欠如」でありえる。たとえば、こういう現実。先のパターナリズムは、人のあり方についての両義性、非‐力の力を視野からこぼしてしまう。

 僕自身が、教員として、「学生の支援者」という立場にいる者でもある。たとえば、就職指導において、何を念頭に置くか。僕らが学生を送り出す労働市場は、男女差別があり、雇用形態によって差別があり、そうした差別を利用して様々なことを安上がりにあげる仕組みが働いており、先ほど述べた「現実」もあり、等々、その総体としては拒否したい、拒否されるべきことが含まれているような場でもある。就職支援とは、そうした場所に学生を送り出す支援でもある。だから、就職することがアプリオリによいこととされてはならない。・・・じゃ、僕はどのように学生に言うのか。結局、食べるためには就職する必要性が高い。そういう月並みな話はする。また、親に財産があってあてにできるならば、ニートやひきこもりだって立派な選択肢であるとも述べる。もちろん、その選択の「先のなさ」も含めて教える。高齢化したひきこもり経験者の直面する問題についても教える。結局、世の矛盾も含めて、その中でどのようにふるまうかは自分で決めるしかなくて、こちらとして付け加えることはあまりない。それでも付け加えることは、そのような世のあり方自体を拒否したいならば、それを変えるために参与する、という面があることを教える。これは誘惑だ。学生は、就職活動に対して乗ることも引くこともできる。そのときに、乗ったり引いたりすることに対して可能な意味づけをできるだけ豊かに知らせ、その上で出した結論に対して起こりうる問題を指摘し、それについてどう考えるかをただす。・・・支援者の仕事というのは、そもそも何が支援か、ということを問い質すこととセットでしか考えられない。それも、その問いを、被支援者に晒すようなやり方で。だから、就労インセンティヴを保護すべき最低水準に含めるなどということは、僕には到底考えられない。こうした点については、上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』*1小泉義之知から信へ*2などが、とても示唆的だ。
 もちろん、誤解を避けるために急いで申し添えるなら、僕は社会に参加しようとする欲望そのものは良いものとして肯定しようと考えている。だから、参加しようとする欲望を一つの魅力的な選択肢として提示し、それを拒否する学生にその拒否の理由を言語化させる・・・てゆーか、するように促す。すぐに答え出せる話じゃないし、本人がその問いとどれだけ真剣に向き合ったかだけが重要だし、問いに向きあうには自然に発芽してくる何かを待つしかないから、とりあえず問いだけぶつけておいて、尋ねて、答える素振りがなければそのまま流す、というやり方を取るけど。その中で、僕自身の「社会に参加しようとする欲望そのものは良いものとして肯定しよう」という考えそのものも、学生の答え次第で変わるかもしれないものとして位置づける。・・・以上のようなやり方は、人の内面にあるものを様々な実体的なもの(財やサービスたち)と同列に潜在能力に放り込んでしまうようなやり方とは全然異質だと思う。社会を固定されたパラメータとみなして被支援者をそこに押し込んでいくのは「悪しきパターナリズム」だと、僕は考える。その代わりに、社会を変数とするか自分を変数とするかを問いとしてその人に投げかける。問いに直面させること、考えないという選択肢はさしあたって認めていない点においてこれはパターナリズムだけど、先のパターナリズムよりはマシだと思う(被支援者にとって楽、という意味ではない。むしろ、しんどい、と言われる)。そして支援者としては、被支援者を社会に埋め込んでいくのではなく、その問いをめぐって被支援者が浮き彫りにするものを社会に投げ返していくという仲介者の役割をもっと意識すべきだと思う。*3



 ついでに、dojinさんのエントリで言及されている吉原直毅氏の後藤批判について。第一に、「むしろ高い労働能力のある(一般に高所得の)人々の労働インセンティブを安易に損なうようなものであってはならない」というのは、今回の母子加算廃止問題を念頭においたとき、この制度があることによって労働インセンティヴを損なっている人というのは一体どのような人でどのような考えによって、なのか。具体的にどんな人か全然イメージできない、という点。第二に、生活保護財源のために相対的に高い税率で課税すると、それによって労働供給のインセンティヴが変わる(労働供給量が減るかもしれない)という話であるならば、その結果として実行可能性の問題が生じるというのであれば、今回の場合節約されるのは400億円とハッキリしているのだから、これが高いか安いかを考えればよい。この数字を聞いて素朴に、「実行可能ではないか」と僕は思ったけど。

*1:「ひきこもり」だった僕から』。

*2:「負け組」の哲学』所収。

*3:このことは、医療や介護も含めて、支援というものが問題になるところではどこでも考えられてよい問題であるように感じる。たとえば、医師の尊厳死に対する考え方が患者の選択肢をどれほど奪っているか、とか。もちろん、医師の支援は必要なのだから、医師をその場から排除することには意味がないどころか害があるので、そういうことに自覚的になりながらの支援というものが考えられるべき、という話になるんだけども。