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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

国民主権をどう考えるか

 「思想の左右に関係なく「改正」に反対すべきである - モジモジ君の日記。みたいな。」へのブクマコメントより。補われるべき問題点は二つある。第一に、現場の教員たちの規律をどのように確保するのかに言及がないではないか、第二に、民主的システムによって選任されているのだから国民主権は貫徹されているのではないか。差し当たり、第二の問題に答える。


 id:ssuguru氏のコメントを取り上げよう。

行政府だって国民主権および(間接的だけど)民主的統制のもとに運営されているのだから「民主主義を否定しない限り」というのは言い過ぎ。適切で痛烈な批判を望む。

 行政府は内閣の統制を受けており、内閣は国会の首班指名によって統制を受けており、国会は選挙による統制を受けている。よって、元を辿れば国民主権は貫徹しているではないか、という意味で取ればよいだろうか。

主権者とは権力行使者を選任するだけのものではない

 単純な指摘から始めよう。「権力行使者を選ぶ権限」をもって主権であるとするならば、ホッブズのように「絶対君主に対する一度きりの授権」をもって絶対君主制を正当化する論法においても国民主権は貫徹している、と考えてよいことになる。このように述べれば、一見して「おかしい」と考えるだろう。元の主権の規定がどうもおかしいのではないか。
 そのおかしさを具体的に抽出するために、次のような状況を考えてみよう。君主主権の制度において、君主Aが君主の交代を決定し、Bを新しい君主に指名したとしよう。そして、権限委譲の様々な手続きを終えたその瞬間において、Aは主権者であるか。・・・主権者ではない。その時点でBが主権者である。主権者は交代している。・・・主権者であるとは、主権を保持しつづけることを含むと考えなければならない。つまり、主権とは「権力行使者を選任する権限」ではないのだ。

 君主主権においては、君主に主権があり、そして権力の実際の行使も君主が直接に行うだろう。主権者と実際の権力行使者が完全に一致している。しかし、国民主権においては、これは最初から不可能である。国民に主権があるとしても、その国民は権力を直接に行使することはできない。そこで、権力行使者への授権が行われる。・・・ここである種の倒錯というか、不可能性があるのだ。国民主権において、国民は主権者でありながら、それを直接行使することができず、いずれかの個人または組織に授権しなければならないのだが、ここでの問題は「授権しながら、なお主権者であり続けること」なのである。

国民主権の本体は権力行使を制約する「網」である

 権力行使の権限を誰か別の主体に授けながら、それと同時に主権者であり続けるために、実際にどのような工夫がなされているのか。・・・第一に、権力行使の方法を前もって制限しておくことによって、第二に、事後的に異議申し立てを可能ならしめることによって、第三に、権力を出来るだけ細かく分割・分散させておくことによって、である。制限しすぎれば授権する意味がなくなる。しかし、制限が十分でなければ私たちは主権を奪われる。それゆえ、国民主権の貫徹は確実に守られるとの保証を得られない。常に失敗する可能性にさらされているものである。権力行使に対するこれら包括的な制約の総体、「網」こそが、国民主権の本質と言うべきではないか。権力行使者の選任手続きと主権の行使を同一視することはできない。国民主権とは、授権とその制限のバランスの中で、その瞬間々々に辛うじて守られるもの、次の瞬間に受け渡され続けるものなのである。この不断の緊張を忘れたところに、国民主権は存立しつづけることはできない。