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思想の左右に関係なく「改正」に反対すべきである

 教基法「改正」に反対の声を上げているのは主に左っぽい人たちなわけだが、しかし、この「改正」の問題点は左派的価値観にのみ関わりのあることではない。政治的立場を問わず一致して反対すべき問題点に絞って提示してみたい。

教育基本法「改正」を問う―愛国心・格差社会・憲法

教育基本法「改正」を問う―愛国心・格差社会・憲法

 参考資料はこの本。前半が高橋哲哉&大内裕和の対談、後半が大内裕和氏による問題点の整理という構成。後半部を参考にしつつ論点を抽出する。

  1. 教育の目的の変更:「個人の価値」の尊重から国策としての人材育成へ
  2. 教育主体の変更:主権者から教育行政へ
  3. 新自由主義的理念へのシフト
  4. 平和憲法との切断、改憲への布石

 1は愛国心、3は格差社会、4は憲法との関連で左派の関心を集めているところでもあり、あちこちで見聞されるところだろう。そして、右派はそんなの別にいいじゃん、と思っているかもしれない。しかし、その陰で目立たない印象があるが、より問題が大きいのは2である。*1

教育行政

教育基本法第十条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
二 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 第二項から見ていこう。教育行政の役割は「条件整備」を目標とする、とある。では、何を目標としないのか。教育内容の策定である。では、教育内容は、誰が責任を持って策定するのか。現場の教師、管理職、教育委員会等々である。これらすべての教育内容に関わる職務についている者たちは、教育内容について、「不当な支配に服することなく」、「国民全体に対して直接に責任を負う」のである。「直接に」という文言は決定的である。たとえば、校長から教員に対して業務命令が出たとする。その際、教員は、「主権者に対する直接的な責任を果たす」という意味において、命令に従うのである。逆に言えば、「主権者に対する直接的な責任を果たすことにならない、むしろそれに反する」場合には、命令に逆らうとまでは言わずとも、命令の趣旨・根拠について問い返すことは、むしろ求められているのである*2。そして、「不当な支配」をする可能性があるのは、言うまでもなく、教育行政である。だから、「この自覚のもとに」、教育環境整備に専心せよ、と戒められているのだ。
 では、「改正」法ではどうなっているのか。

「改正」法案第十六条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

 教育行政は、教育環境だけでなく教育内容にまで関わることが可能になっており、また、教育が主権者=国民全体に対して責任を負って行われるべきことが完全に抹消されている。それどころか、市民から行われる自由な批判という「不当な支配に服することなく」法律の定めるところにより行われるべきもの、とさえ読むことができる。・・・否、読むことができる、どころではない。教育内容を策定するのが教育行政であり、その教育行政は誰に対しても明確な責任を負っていないのであるから、ここで想定される「不当な支配」を行う者は、教育行政の外部=市民しかない。教育内容に対する主権者が、国民から教育行政に変更されるのである。

教員

 さらに、同様の変更が教員に関する規定においても見られる。

教育基本法第六条(学校教育)
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

 ポイントは、教員は「全体の奉仕者」、つまり、主権者たる国民全体への奉仕者であるという点である。既に触れた第十条「国民全体に対し直接に責任を負つて」という文言と対応するところである。しかし、「改正」案では、この点が抹消されるのである。

「改正」法第九条(教員)
 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2 前項の教員について、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

 文言だけ見ると、あまり変わりがないように見えるだろう。しかし、これも先ほど同様、ほとんどまったく違う意味である。現行法においては、教員(およびその管理者を含む教員組織)は、主権者たる国民に対して直接責任を負い、教育行政の不当な支配に抗することが求められている。しかし、「改正」案においては、責任を負う対象は不明確になり、ほぼ全面的に介入が可能となった教育行政の下で、教育行政に対して責任を果たすことが求められるようになるだろう。まったく正反対の意味になっているのである。教育行政の位置づけの変更と呼応して、教員は国民ではなく教育行政を向くことが求められるのである。

まとめ

 以上、指摘した2点が、「改正」法の最大の問題点だと思われる。すなわち、教育における主権者の交代である。このような「改正」は、民主主義を否定しない限りは、左右の思想傾向と関わりなく許し難い暴挙と言っていい。ここまで理解した上で「改正」法に反対しない馬鹿者は右でも左でもない。国民主権のなんたるかも分からない前近代主義者である。

*1:参考文献においては、第2章第2節&第4節で論じられている内容。

*2:この意味でも、国旗・国歌の強制に反対して処分されている教師たちは、本来要求されている義務にむしろ忠実であると言うべきだ。日和見を決め込んでいる教員たちに対しては、義務の履行=行政への不服従を要求したい。