モジモジ君のブログ。みたいな。

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思想は生活に対置されるものではない

 全体はここ。>http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-275.html
 この中の、「http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-257.html」について。


 「生活は思想に先立つ」のは、僕はむしろ全面的に賛成。たとえば、ちと古いけど、去年の障害者自立支援法絡みのやり取りも、そういうものだったと理解している。>「障害者自立支援法について反論する - モジモジ君の日記。みたいな。」、「障害者自立支援法について反論する・その2 - モジモジ君の日記。みたいな。
 人の生活が破壊されるところでは、破壊がなされていない世界を想起することだけが、破壊されていない世界の可能性を開く。生活が思想を要請するわけだ。僕が議論しているのは最初からそのような舞台であって、だから「知識人」というよりも「思想家」は、大衆の中から生まれてくる。青い芝しかり、田中美津しかり。仏陀もそう(ここでの「大衆」は階級的なものではないはず)。
 こう考えてみてから「」での整理を読み直してみると、「「思想によって知識人であった」丸山を「生活によって大衆であったもの」に対置する」という批判は、ただレトリカルなだけで何の根拠もない。これらはそもそも対置されるものではない。より具体的に反論しよう。ここで提起されているところの大衆には、明確に思想がある。大衆の在り方は、次のように整理できるだろう。「私はとりあえず生活できている」「生活できていない誰かがいる」、この両方が同時に成り立っている状況を容認している。つまり、「正義と呼んで良い」と態度で語っているに等しい。知識人・思想家にも生活がある。大衆にも、その生活が含意するところの思想がある。当たり前のことである*1
 だから、思想と生活の対立などない。事態は正しくはこうである。死に行く者の生活に根ざした思想と現に生活できている者の生活に根ざした思想の争いなのである。・・・いや、言い換えよう。死に行く者の生活「にも」根ざした思想と現に生活できている者の生活「だけに」根ざした思想の争いなのである。前者の方が後者より優れている。僕はそう主張している。だから、きはむ氏の(あるいは吉本の)反批判は、後者が前者より優れている、という語られ方をするべきなのだ。
 しかし、ここでまたしても「興味深い仕草」が反復されているのを見て取ることができる。現に生きている者の生活だけに根ざした思想(これは「大衆の」というよりも「愚民の」思想である)は、死に行く者から発せられる思想と決して正面から対決しようとしないのだ。「生活」と「思想」、「大衆」と「知識人」を対置させるというレトリカルなだけの論法に頼って反撃はなされるのである。その反撃の表面的な勇ましさとは裏腹に、思想の内容における対決が徹底的に回避されていることがむしろ際立っているのである。今更こんなものにごまかされたりはしない。

*1:ただ、大衆の思想は自覚されていないところがあるので、その自覚を促すこと、「本気でそう思ってるの?」と問いかけることは重要である。そして、そのように問いかけたときのねじくれた退路の行き方が、ここ最近観察されている興味深い仕草である。