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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

動機について

 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-174.html

 「「逃げれるものなら逃げたいよ」と感じつつもボランティアなどに勤しむ」動機をどう見るか、なわけだ。ここで、共感とコミットメントを区別したアマルティア・センの議論を参照しよう。

・・・共感に基づいた行動は、ある重要な意味で利己主義的だと論ずることができる。というのも〔共感においては〕人は他人の喜びを自分でも嬉しいと思い、他人の苦痛に自ら苦痛を感じるからであり、その人自身の効用の追求が、共感による行為によって促進されうるからである。この意味で非‐利己的なのは、共感に基づく行為であるよりはコミットメントに基づく行為である。*1

 きはむ氏が言う「一種の「帰属処理」(「好きでやっているんでしょ」)は可能である」ようなものは、共感である。コミットメントはこれとは異なる。じゃ、コミットメントってのは一体なんなのさ、という話になるが、これは結構込み入っていて、要約するのは(できんことはないが)ちと時間はかかる。なので、引用に頼らず、僕自身の解釈を述べる。
 コミットメントとは、ある状況においてある行為が必要とされると論理が存在し、それを受け入れるがゆえに行為する、というような形で行為を促すものである。その行為が自らに不利益(経済学的には厚生水準の低下)をもたらすようなものだとしても、である。で、なぜ、共感とコミットメントの区別が重要なのかというと、共感は感じる人もいれば感じない人もいるというような個々人の主観に基盤を持つものであるのに対し、コミットメントは人と人の間にある事実関係に基盤を持つものであるからである。死に行く人がいて、自分がいる。この状況で、死に行く人の痛みを我が痛みとして関わろうとするのは共感である。しかし、コミットメントは違う。死に行く人の痛みが我が痛みとして感じられるかどうかとは関係なしに、死に行く者には一切の自由がなく、ゆえに死に行く者と私の間で共有されている自由なるものもなく*2、ゆえに、その間では権利として主張しうる何物もない。そこに規範的なものを、何か社会的なものを、やはり置きたいと考えるならば、そこで行為が促されることになる。このような関係は、僕と死に行く者との間にあるのと同じ物が、きはむ氏と死に行く者の間にもあるのである。ここから降りるためには、「降りる自由、その2」で書いたようなことを甘受するしかない。ここでの切断処理は相当に重いのである。
 しかし、人は殴られたときには「痛い!」「ムカつく!」と言うだけでは足りず、「それは不正だ!」といいたくなる生き物らしいので、とりあえずそれはダブスタだと指摘した上で、一切の規範を諦めるか、降りることを諦めるか、の二択を迫っているわけだ。そして面白いことに、この二択を迫られると、一切の規範を諦めると明言する人は、そうそういない(とりあえず僕は知らない)。そして、http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060922/p1#cでのきはむ氏の応答に見られるように、答えないで済ませようとするかのような、トリッキーな返答が帰ってくることが多いのだ。これは本当に興味深い現象だと思う。切断処理しようとしても、そうそうやりきれるものではないらしい。首尾一貫性への欲望がこれほどまでに強いならば、この点に賭けてみるのは悪い賭けではないと思う。だから、二者択一を迫る。「私は「降りさせない」戦略については否定しないまでも常に抵抗」したとしても、この程度には後がないところまでは追い詰められると思うよ。


 しかし、むしろ降りないことを「窮屈だ」と捉えるセンスは、僕は分からないではないけれども、かなりの程度思い込みに過ぎないのではなかろうか。思うに、今背負っているものの窮屈さに加えて、降りないことの窮屈さが増す、というイメージでいるのかもしれない。それは、多分誤解だ。むしろ、正当化しきれないのを薄々気づいていながら正当化し続けることの窮屈さの方が厄介なのだ。嘘がない、とせめて自分自身では思える地点に立ってみて、それなりのコミットの負担を引き受けることは、思われているほどに窮屈ではない、と思うけどね。まぁ、これは人によるのかもしれないので、なんとも。


合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究

合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究

*1:アマルティア・セン『合理的な愚か者』、133ページ。

*2:死に行く者の自由の集合が空集合であるなら、私の自由と死に行く者の自由の共通部分も空集合である。