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降りる自由、その2

 「生きていること」は人間存在の前提条件なのであるから、規範や関係性やその他諸々の社会的なものに対しても不可欠の前提条件である。だから、そこで立ち上げられる規範は、「死なせるな」から出発する。*1。「死なせるな」以外のどんな規範や関係性も、「死なせるな」が守られている状況から建て増されるものであるし、「死なせるな」が守られてないところではガラガラと崩れさるものだ。「共に生きる」ときにだけ、両者の関係は人間同士の(互いが互いの食べ物ではないような)関係である。
 ところで、「共に生きる」ことが常に可能だとは限らない。それは、メンバー全員の食料があり、他の必要なものがあり、十分に物質的な条件が整っていることを意味する。物が足りないならば誰かは生きられない、つまり、社会は不可能なのである。残念。もし足りるならば、両方が共に生きる。それだけのことだ。

「降りる自由」とは、すなわち無限の責任=応答可能性の連鎖から外れるということでもあり・・・、ではなぜそれが必要かというと、「降りない」ことを貫くとひとはしばしば活動停止に陥るからです。

 無限の責任=応答可能性の連鎖から外れるということは、社会を可能とする条件を支えることから降りるということであり、そこで既に社会は壊れている。死に行く者と降りる人の関係は、社会的な関係では、既にない。死に行く者から見たとき、降りる者は、降りる自由を行使しているのではない。死に行く者と降りる者の間には規範的な何かを支える一切のものが消失しているのであり、そこではいかなる自由も存在しえないからだ。死に行く者から見たとき、降りる者は、単に降りているだけである。

 東氏は「「降りない」ことを貫くとひとはしばしば活動停止に陥る」と述べる。その通りだ。だから、しばしば私たちは降りる。僕も降りる。しかし、死に行く者に対して「降りる自由」と述べてみても無駄だ。自由とは生きていることの上で初めて意味を持つものであるから、死に行く者においては一切の自由が否定されているのであり、とすれば死に行く者との間では一切の自由が共有されていないからである。「降りる自由」という言い方は完全に間違っている。単に降りている、としか言いようがない。それを殊更に「降りる自由」と言いたくなるのは、私たちがこれほどまでに自己正当化の欲望に塗れているからである。これを東氏だけの欲望だとは言わない。僕の中にもある。しかし、繰りかえしになるが、このような自由が自由として主張されることは間違っている。降りる自由など存在しえない。


 降りる自由などない。しかし、端的に降りている。そのような私たちと死に行く者の間にはどのような関係があるのだろうか。まず、どのような関係もない。そこでは、何かをして良いとか悪いとか言えるような、どんな関係も成立していない。私たちと死に行く者の間は切断されている。とりあえず、それを繋ぎたいと思うかどうか、繋ぐための力を注ぐかどうか、それが問われる。繋ぎたいと思い、そのための努力をするとして、しかし、それでもなかなか死に行く者の死を回避することは困難である。その人に寄り添って「この人を助けよ」と声をあらん限りに絞って叫んでも、大抵の人は気づきもしていない。一人で背負ってみても、死に行く者はそこら中におり、この人を助けているとき、あの人からは「降りて」いるのである。降りることは不可避である。しかし、もう一度確認するが、降りることが不可避であることとそれを「降りる自由」と言って正当化することは別の話である。「降りる自由」なるものは端的に間違っている。

 いずれにせよ死に行く者の死が避けられないでいる限りは、死に行く者と私たちの間は断絶している。その断絶を前に、私たちは、たとえば「許してくれ」と言う。私たちは出来る範囲のことしかできないので、出来る範囲のことをする。この出来る範囲についても、強度に違いがあり、およそ「生きていること」以外の一切合切をつぎ込むようなレベルから、もっと俗っぽいたのしみを自分のためにちゃんと確保しながら残ったものを差し出すという緩いレベルまでいろいろだ。他方、死に行く者たちも、それを見て許す気になったり、なれなかったりするのである。許せないが危害を加えようとまでは思わないと考える人もいれば、死に行くくらいなら誰かを道連れに、と考える人もいるだろう。いずれにせよ、断絶している私たちと死に行く者の間で、何が行われようと、それを非難することはできない。それを嫌だ、と思うのは止めもしないし止められもしないだろう。それを回避するための努力をすることも別に止めない。しかし、それは不正だと述べるならば、それは嘘である。そこには一切の規範は成り立っていないのだから。仮に死に行く者が僕を殺そうとしても、僕はそれを全力で回避しようとするだろうが、しかし、それを不正だと述べることは間違っている。

 今のところ、僕は殺されていない。その理由は分からない。十分ではないにせよ死に行く者のために働いているみたいだから生かしといてやろう、と考えているのか。何の役にも立たないが、殺すのも面倒だ、と考えているのか。とにもかくにも、殺すことは嫌だ、と考えているのか。単に、そんなこと思いつきもしないだけなのか。理由はどうでもよい。大事なことは、次のことである。僕が今殺されていないのは、単に実行に移すまでに殺そうと思った人がいないからというだけのことであり、僕が殺されるべきではないという規範が成立していてそれが守られているからではない、ということだ。私に向かって微笑む死に行く人と私の関係がそのようなものでしかない、と考えることは愉快なことではない。しかし、私は死に行く者たちが死なないで済むような世界で、その人たちとの間に人間的な関係が可能であるような世界に住みたいと願う。そのような世界に住むための最初の一歩が今はそのような世界ではないと認めることである。つまり、自分が生きていることをごまかしなく肯定するための不可欠の一歩でもある。自由に生きるためには、「降りる自由」という概念は拒否されなければならない。

*1:・・・とここまで書いて、あらら、小泉義之そのまんまじゃん、と今更思い出す(笑)。小泉義之『弔いの哲学』によれば、<生きることはよい>、これがモラルの最低限の原則であり、最高の原則としている。<殺すことはない>はこれから直接に導かれる。