降りる自由
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060826/p1
誰かの生きる条件が実現していないとき、その社会は、その誰かとそれ以外の人間を差別している社会である。差別はよくないとするならば、すべての人の生きる条件が実現している社会が作られねばならない。・・・そのような社会を作るには、手間がかかる。誰にこの手間を負う責任があるか。誰かにはあり、別の誰かにはないと言うならば、それもまた義務を負う人間と負う必要のない人間を差別している社会である*1。ここでも差別はよくないとするならば、すべての人の生きる条件をすべての人の責任において実現している社会が正しい社会、ということになる。
生きる条件が実現していないその誰かだけは降りられない。とすれば、その実現に対する責任について「降りる自由」を考えるならば、次のどちらかにならざるを得ない。
- すべての人にではない、一部の人にだけ認められた自由
- 「すべての人に降りる自由を確保するための義務」から降りられないこととセットで認められた自由
平たく言えば、それは差別肯定か自己論駁的か、そのどちらかでしかありえない。
ついでに
- 東浩紀「降りる自由」:http://www.hirokiazuma.com/archives/000055.html
- 同「降りてみる」:http://www.hirokiazuma.com/archives/000058.html
今回改めて読んでみたけど、東氏の「降りる自由」論には多少汲み取れるところもあるし、今回のエントリで批判したのとは別のところでもう少し混み入った踏み外し方をしているように見える。いずれにせよ、論の全体には賛成しない。これは別エントリでまたやる必要がありそう。
*1:ここでは、責任の有無についてのみ考える。大きさについては、それぞれの能力に応じて、と言う他はないだろう。