モジモジ君のブログ。みたいな。

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どうしてフェミニズム批判は低きに流れるのか

 「フェミニズムの主流派はどこにいるのか - 数学屋のメガネ
 流れとしては、元々「フェミニズムのうさんくささ - 数学屋のメガネ」がエントリされて、それに対する批判としてx0000000000さんから、そしてrossmannさんから、それぞれ批判のトラックバックがなされた。それに対する再応答である。khideaki氏は過剰反応と切り捨てているが、僕から見れば至極もっともな批判だと思える。

対象を摩り替えていませんか?

「とりあえず、フェミニズムの歴史もなんにも知らないことが分かる文章だ。」

これに対しては、皮肉を込めて、「とりあえず、論理についての何たるかについて何にも知らないことが分かる文章だ。」と感想を言っておこう。論理というのは、対象を選ばない。相手にだけ適用出来るものではないのだ。それは自分にも返ってくることを知らなければならないだろう。

僕はフェミニズムのうさんくささを、一面を固定した視点で見るという形而上学的な論理が極論として出やすい所に見ていた。だから、それに対して論理的な反論をするのなら、フェミニズムには、そのような固定した視点は生じないのだという反論をする必要があるだろう。それが論理というものだ。それが納得いくものであれば、僕のうさんくささも解消されてフェミニズムに対する評価も変わってくると言うものだ。

しかし、それを「知らなければ批判はできない」などという紋切り型で語るなら、論理の何たるかを知らないだけだろうと思うだけだ。僕はフェミニズムの定義をしたのではない。歴史を語ったのでもない。論理的側面を語っただけだ。それに対して何を知らなければ批判出来ないというのだろうか。論理というのは、その展開の構造を見るものなのである。個別的な知識について何か言及するのではない。僕の論理展開について、知らなければならない知識がどういうものであるか何も語らずに、「知らなければ批判はできない」という言葉を対置するだけで批判したつもりになっているとすれば、論理を知らないのだろうと思うだけだ。

 二等辺三角形を持ち出して、「3つの辺のうち、2つの辺の長さが同じである」ことを見出して、「三角形は、3つの辺のうち、2つの辺の長さが同じである」と言い出せば誤謬であろう。khideaki氏が述べたのはその程度のことである。「2つの辺の長さが同じである三角形もあれば、そうではない三角形もある」ことをきちんと分かっておかねばならない。
 もちろん、khideaki氏は、エントリの中で「極端な」との限定詞を毎回つけており、それによって対象を限定しているのだ、と言いたいのかもしれない。しかし、エントリのタイトルは「フェミニズムのうさんくささ」である。エントリの中では二等辺三角形に限定して議論をしているならば、タイトルに「三角形の二辺の長さは等しい」と書いてあれば、少なくとも「不適切なタイトル」と言うことができるだろう。限定された対象について論証したことを元に、限定されていない対象についての結論を標榜しているのだから、これこそが「論理のなんたるかを知らない」とむしろ言われてしまうようなふるまいではなかろうか。「極端なフェミニズム」と「フェミニズム」を区別しないで用いている*1のは明らかなので、その点はkhideaki氏に責任があると思うがどうか。
 また、khideaki氏がその点を修正するとしても、khihdeaki氏が擁護している石原慎太郎内田樹はそのような限定を行っているようには見えず、その意味で、彼らに対する擁護は、少なくとも何らかの留保を付けるべきだろう。たとえば、対象限定をきちんとしていないので、石原や内田に対する批判はもっともと思えるところもある、くらいは当然主張されるべきだ。元々khideaki氏自身が「特称命題を全称命題にして取り違えるという論理的間違い」などという指摘をしていたくらいなのだから、このような曖昧さには敏感であるべきだろう。

リベラル仮面*2系保守の匂い

 もう一つ、内容として見過ごせないと思ったのは次の部分。

現状では、女性が訴えれば「セクハラ」になるという風潮になっている。しかし、同じように見える行為でも、それが不当なものと、偶然の事故のようなものとの違いがあるはずだ。あるいは女性の側の全くの誤解だってあるだろう。それを一緒くたにするとしたら、それは論理的に正しくないと僕は思う。機械的に表面的な事柄だけで判断をするから僕はそれをうさんくさいものと感じてしまう。

 そのような状況が本当にあるのか知らないが*3、仮にあるとしよう。その場合、それは行き過ぎだと言ってもよいと思うが、しかし、それは少なくとも一面的である。まず我々が想起すべきは、「女性が何を訴えても「セクハラ」にはならなかった風潮」が実在したということであり、「女性が訴えれば何でも「セクハラ」になるという風潮」は、仮にあるとしても、それは立場が入れ替わっただけで、「事態が悪化した」と述べることはそれほど簡単ではないのだ。
 ゆえに、この手の行き過ぎを批判する場合は、せめて両方の極端に言及するのでなければ、(それが意図的なものであれ意図せざるものであれ)問題にすべき重要な事柄を隠蔽するふるまいになってしまっていると言うべきだろう。あるかどうかも分からない、少なくともフェミニズム全体の中でもまったく支配的ではないはずの極端なフェミニズムを批判しながら、他方で過去に現実に存在した極端な状況との対比を怠る言説を、僕はうさんくさいものと感じてしまう。

まとめ

 一見リベラル、しかしその実(意図していようとしていまいと)二重基準であり、その意味でもっとも極端で批判されるべきフェミニストとせいぜい同等のものでしかなく、それよりほんの少しでもマシな大半のフェミニスト(=極端な立場から一歩でも引いているフェミニスト、言うまでも無く大半はこういう人)に対しては明らかに劣っている、と僕は思う。一部をもって全体を否定する論法、隠し持った二重基準という性質は、歴史修正主義者たちにも良く似ている*4。まぁ、フェミニズムの中の肯定的なものをしっかりと受け取っていないフェミニズム批判に、フェミニズムを超えるものがあろうはずがないのだけども。

*1:さもなければ、悪質なすり替えだ。

*2:「リベラル仮面」という秀逸な表現は、とある友人の命名による。

*3:セクハラが問題になるとき、「こういうことは責めるほどのことではない」と主張される事例のほとんどは、「いや、それセクハラやん」としか言いようのないものであることばかりだと、個人的には感じている。ただ、僕は全知全能の神ではないので、「そういうことがありうる」ことは認めてもいい。

*4:実際、両方兼ねている人も多い。