読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

無矛盾性だけでは足りない

 「非実在論とは - 酔狂人の異説
 お返事をいただいたので、検討してみる。

論理の飛躍の代わりに概念の混乱がある

 「人間の認識と独立した存在の真偽は不明」である。しかし、不明であるならば、真か偽が分からないということであり、であるならば、実在論に立つべきか非実在論に立つべきか分からない、となるのが筋である。にも関わらずsuikyojinさんは非実在論に立つのだから、ここには論理の飛躍がある。

論理の飛躍はない。実在論と非実在論とに二分できるのならば、たしかに論理の飛躍である。だが、非ユークリッド幾何学という呼び方がユークリッド幾何学以外の幾何学の総称であるように、非実在論という呼び方は、実在論以外の存在論の総称に過ぎない。

 非実在論=「実在論以外の存在論の総称」であるならば、「実在論と非実在論に二分できている」じゃん。というわけで、この部分は文字通りに読むとまったく矛盾している。無意味だ。
 文字通りに解釈するだけなら、これで終わりである。しかしそれではあまり生産的ではないので、補いつつ別の可能な解釈につなげてみる。おそらく次のように言いたかったところを言い間違えたのだろう。すなわち、「(1)実在論と非‐実在論に二分できる、(2)非‐実在論の中には非実在‐論と<非‐実在&非‐非実在>論*1があり、自分は後者である」。これなら、まだ意味は分かる。しかし、いくらなんでも「実在論以外の存在論の総称」の中に、全然意味合いの異なる二つの立場をまぜこぜにしたままで「非実在論」を自称するのはいいかげんに過ぎる*2

<非‐実在&非‐非実在>論を批判する

 というわけで、ひとまずsuikyojinさんの立場を<非‐実在&非‐非実在>論、「実在論とも非実在論とも決めない立場」と定位して、それでもなお批判を免れないことを考えよう。その糸口として、次の部分を検討する。

「桶の中の脳」と呼ばれる思考実験がある。脳だけ取り出して神経に偽りの情報を送り込んだとしても、その情報に矛盾がなければ、それが偽りであることに気づかないというものである。「人間の認識のみで現実には存在しない」と考えても何の矛盾も発生しない。

 非実在‐論でも「矛盾が発生しない」がゆえに非実在‐論は否定しない(そして、もちろん「実在論でも矛盾は発生しない」ので、実在論も否定されない*3)。その意味で両者は同等であり、ゆえに、どちらも選ばない。suikyojinさんはこのように主張しているわけだ。よって、前回エントリにおける「非実在論者は宗教的議論に深入りしていないのか」での批判は、一応回避できている。もちろん、念を押しておくけれども、suikyojinさん自身は非実在‐論と<非‐実在&非‐非実在>論の区別さえつけない混乱した用語法によって議論しており、それを補って再解釈するならば回避できている、という意味である。まぁ、とにかく回避できている。
 しかし、「探求に意味を与えるものとしての実在論」で書いた批判については免れ得ない。その箇所で僕は次のように述べた。「実在論に立つことには、明らかなメリットがある。実在論は、私たちの知識の探求が「何のためであるか」を説明することができる。…他方、非実在論に立つことによっては、私たちの知的探求の営みがどういう目的のものであるのか、それは何のためになされているのかを説明することができない」。これは言い換えれば、「科学的探究は何のためになされるのか」という問いに対する答えを理論体系に付け加えるとするならば、実在論的体系は矛盾することなく付け加えることができるのに対し、非実在‐論的体系ではできない、と主張しているのだ。
 この点は<非‐実在&非‐非実在>論でも同様である。というより、この立場では非実在‐論さえ用いずに説明しなければならないため、条件はさらに厳しい。非‐実在論の二つの立場が矛盾を生じさせないためには、問いから逃げなくてはならない。問いから逃げずに、科学的探究の目的を説明しようとするならば、実在論の立場を「仮説として」採用せざるを得なくなる。僕が述べたのは、こういうことだった。
 だから、suikyojinさんは、おそらく次のどちらかを選択しなければならない(選択できる)。第一の道は、実在論によらずに、科学的探究の目的を説明すること。第二の道は、そもそも科学的探究の目的など説明するつもりがない、と明言すること。一見簡単なのは第二の道である。しかし、そもそもの話の発端が理科教育において科学的探究、その営みの意味について説明する、という話だったことを思い起こそう。その理科教育は一体何のために行われているのか。「科学的探究の目的は何か」という問いに対して答えることなくして、一体どんな答えが与えられるのだろうか。このように考えるならば、第二の道は見かけほどには易しくはない。そして、第一の道もそう簡単な問いではない。
 他方、実在論は、シンプルに、そして私たちの直観に合致する形で、これらの問いに答えられる。ゆえに、その性能差ゆえに、少なくとも理科教育の現場で採用されるべき仮説としては実在論が採られるべきだ、ということまでは言える。もちろん、それは「仮説」として提示されるのであり、非実在‐論についても教えていけないわけではない。しかし、それは「同等のものとして」ではありえない。現に、科学的探究の目的について答えられないという意味で、その点に関して、性能が低いがゆえに暫定的にであれ棄却されているものとして教えていい、せいぜいその程度である。無矛盾性は理論体系がみたすべき必要条件ではあるけれども、それだけで十分なわけではない。その主張内容が要請される問いに答えをもたらしうる程度に豊かであるかどうか、それが問われるのである。


 似たような話として、進化論とID理論の問題がある。suikyojinさんが拘っているところの「無矛盾性」について言うならば、ID理論で矛盾は生じない。だとすれば、進化論とID理論を同等の理論として教えるべきか?ナンセンスな話である。

*1:ややこしい。

*2:というより、実在論批判に熱心なあまり、非‐実在論の中での自説の位置づけをまともに考えたことがないんじゃないか。

*3:この点はsuikyojinさんは明記していないが。