モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

構成主義と非実在論は別のものです

 「実在論とは - 酔狂人の異説
 suikyojinさんからまとめの漏れを指摘していただいたので、修正・追記。suikyojinさんの立場が構成主義実在論としたのは誤解ですね。改めて、構成主義実在論の立場からの批判を送ってみる。>関連:「構成論にもいろいろな立場があるものだなあ……@リヴァイアさん、日々のわざ

実在論者は宗教的議論に深入りしていないのか

人間の認識と独立した存在の真偽は不明である。私が実在論をとらないのは、真偽を明確にすることのできない宗教的議論に深入りする気がないからである。

 この引用部の直前までsuikyojinさんは次のように述べている。「直接に対象をありのまま認識することはできない」、「(認識されたことについて)よくできたコンピュータグラフィックかもしれないし、テレビカメラのレンズの傷かもしれないから、現実に存在するとは言えない」、だから「実在論の真偽」という宗教的議論には立ち入らない、こういうわけである。
 そのとおり。「人間の認識と独立した存在の真偽は不明」である。しかし、不明であるならば、真か偽が分からないということであり、であるならば、実在論に立つべきか非実在論に立つべきか分からない、となるのが筋である。にも関わらずsuikyojinさんは非実在論に立つのだから、ここには論理の飛躍がある。
 「だって実在論が成り立たないから非実在論だろう?」と思うかもしれない。そう考える人には背理法による証明のイメージがあるのだろう。しかしそれは錯覚である。非実在論の立場を正当化するためには、非実在論が真であると証明するか(構成的証明)、実在論が偽であると証明するか(背理による証明)のどちらかが必要である。しかしここでsuikyojinさんが示しているのは、実在論の証明がないことだけであり、偽の証明ではない。suikyojinさんが言うように「不明」なのである。
 「認識が理論に依存している」は構成主義の立場である。そして、構成主義実在論者は、これに反対しない。しかし、「存在が認識に依存している」かどうかは別の話である。「認識が存在に依存している」のか「存在が認識に依存している」のかは、suikyojinさんが述べているように「不明」なのである。このように、非実在論者の多くは、「宗教的議論に深入りしない」と主張しながら、こっそり、あるいは無意識に宗教的議論を導入している、というのが実際のところである。
 こうして、議論は一旦スタートに戻る。その正当性を証明するという方法によっては、実在論も非実在論も正当化できない(少なくともその方法で決着をつける方法は僕の知る限りない)。suikyojinさんの非実在論の立場は、僕の見るところ、素朴に過ぎる。構成主義(私たちの認識は、私たちが構成したものであり、実在そのものではない)だけを主張し、実在については「分からない」と述べるのが筋の通った態度だろう。

探求に意味を与えるものとしての実在論

 知識の構成主義に立った上で、では実在論か非実在論か。その正当化根拠を尋ねるならば、どっちに立つこともできない。では、この問題については答えを出せないのか。それはこの問題に答えを与える目的によるだろう。僕の考えるところでは次のようになる。
 私たちの持っている知識が構成されたものであるとして、それは一体何であるのか。二通りの答えがある。第一の立場。知識はそれ自体としてあるものであり、何とも関係付けられていない(非対応説)。第二の立場。知識は私たちが存在している世界と(不完全にではあるが)関係付けられた体系である(対応説)。非実在論の立場からは対応説に立つことはできない。他方、実在論の立場からは対応説・非対応説、どちらに立つこともできる。そして、対応説に立つならば、実在論に立つしかない*1。このようにひとまず考える。そして、繰り返すが、どちらに立つべきかを決定する究極の根拠は存在しない。であるならば、私たちは一体何を考えてこれらの二つの立場から選ぶのか。
 この点、実在論に立つことには、明らかなメリットがある。実在論は、私たちの知識の探求が「何のためであるか」を説明することができる。それは私たちが存在する世界「についての」知識であり、それによってその世界では何が起こりうるか、何が起こりえないかを予想することができる。予想できるだけでなく、それがどのような仕組みになっているのかを想像することができる。それは(間違っているかもしれないにせよテスト可能な)仮説を与えるし、(間違うかもしれないが私たちが生きていく上で有用な)予測を可能にするものである。科学的な探求とは、そのためのものである、と説明することができる。これは私たちの素朴な直観にも合致している。他方、非実在論に立つことによっては、私たちの知的探求の営みがどういう目的のものであるのか、それは何のためになされているのかを説明することができない(少なくとも僕はそのような説明を知らない)。
 よって、実在論形而上学(=正当化されずに体系に導入されるもの、公理)であるけれども、私たちのあり方を整合的に説明しうるもっとも優れた立場である。そして、科学的探究に意義があることを主張したいならば、その主張を可能ならしめる立場は実在論である。これより優れた立場が存在しないとは言わないが(そしてそれは非実在論の立場における主張かもしれないが)、そうした立場が可能であるならばそれは実際に提示されなければならない*2

おわりに

 とまぁ、こう思うのであります。非実在論のような逆説的な議論は、テクニカルな議論が好きな人にはウケるのは分かるけれども、実際聞いてみると不徹底な議論であるのがほとんどです。今回suikyojinさんが示した議論においても、構成主義に立つべき理由は語られているけれども、それが非実在論に立つべき理由は明示的には示されていません。その先の話があるのなら、また聞いてみたい気はしますけれど。

*1:もちろん対応説そのものに対する批判もあるし、それとは異なる立場(整合説、実用説など)もありますが、今回は議論しません。僕自身の立場を言えば、整合説にせよ実用説にせよ、対応説と対立するものではなく、整合説や実用説のまずいところを改善しようとするとどんどん対応説に近づいていく、というイメージですかね。まだまだ勉強すべきことがたくさんありますが。

*2:今回の議論から遠いところで関係する話だけど、ここまでの僕の議論は「形而上学的命題は批判可能である」ことを含意しています。形而上学的命題は、私たちの知の体系の中で有意味であるし、不可欠な役割を果たしているし、議論の対象になりうるし、その意味で狂信的・批判不可能な命題であることとはまったく違う、ということです。