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体罰などいらない

暴力がはびこる社会は恐ろしい、でも体罰や「しごき」は必要な人がいるらしい」@kmizusawaの日記
 特にコメント欄。

全ての暴力を肯定するわけではありませんが、「悪い事をすると痛い目に遭うんですよ」という意味での体に教え込む罰が存在するべきでもないのでしょうか。
もし「そうだ」とするのなら、どのようにして「悪い事をしてはならないのか」を「言っても理解しようとしない人」に教える事が出来るか、を考える必要があるのではないでしょうか。(by id:ululun氏)

 言っても理解しようとしない人は、殴っても理解しようとはしないのであり、殴ることは端的に無駄である。殴ることが教えてしまうことがあるのは、殴られた事実が言葉に翻訳されて何かが伝わってしまうだけであり、それはつまり、殴らなくても言葉で伝えることができた、ということでもある。殴って教えることができるならば言葉でできるはずだし、逆に言葉で教えられないならば殴っても教えられない。そして、殴ることによっては、殴ってはいけないというルールを理解させることはできない。それは矛盾しているからだ。矛盾を叩き込むことは、その人の言葉と行動が論理的に一貫していなくてもよいことを教えてしまうことでもあり、ますます言語で教えられる可能性を破壊してしまむことになるだろう。
 私たちは、相手が悪いことをしたというとき、悪いことをしたという評価を仮説として伝えることしかできない。その評価は間違っているかもしれない。間違っているかもしれないが、私たちはあなたの行為を悪いことだと思う。そのように呼びかけることしかできない。何かを悪と名指すとき、そこに無謬性が前提されてはならない。悪だと主張し、その理由を述べ、それは間違っているかもしれないがそれを示すために反証せよ、と呼びかけることしかできない。相手は反証もしなければ、自らの行為を悪だと認めることもしないかもしれない。それは、待つしかないだろう。

 では、許し難い非人道的行為だと我々が考える相手を野放しにするのか。その必要もない。我々は、実力をもって、彼を捕縛し、隔離し、彼が誰かを傷つけることが可能ではない状況に押し込めてしまえばいい。それは、彼の行為が私たちを傷つけるから、それは私たちにとって不都合だから「実力行使をする」のであり、実力行使が正しいとか、彼の行為が悪だとか、そういうことはまだ言えない。私たちは彼の行為を悪だと、暫定的に考え、その理由を述べ、彼に突きつけるが、彼はそれに反対し、彼の意見を述べる権利があり、そしてそうして述べられたことは、真面目に吟味されねばならない。

 彼の行為が悪であると仮に考えるとして、それが悪であると言えるのは、私たちがそう思うというだけでなく、彼もまたそう考えるときだけである。そこに、殴る蹴るなどの苦痛を与える行為がある必要はない。むしろあってはならない。ただ単に、彼の暴力行使ができないように実力行使をしておけばいい。つまり、捕縛して、隔離しておけばいい。そうやって彼の暴力を事実として封じたところで、神が彼の命を奪うまで(つまり寿命が尽きるまで)、彼に向き合い、問いかけ続ければいいし、それ以上のことはできない。苦痛を与えることは、余分なことでしかない。

 こうしたことのどこにも、暴力を用いるべき必要性などないし、逆に用いてはならない理由なら沢山ある。*1


関連エントリ:


関連図書。

弔いの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

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*1:隔離することも暴力だ、と言いたいなら、その用語法に同意してもいい。その場合には、「隔離する以上の暴力、苦痛をもたらす以外の効果をもたない暴力を使う必要はない」と言えばいい。「暴力」という言葉をどう定義するにせよ、僕が何を拒否し、何を仕方のないこととして認めているかは明らかのはずである。