モジモジ君のブログ。みたいな。

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何の効率性か

この人要らないんじゃないか - 猿虎日記(さるとらにっき)」。
 僕の場合は、効率性を問うときに「何の効率性か」が問題なんだと、まず思うわけです*1。高齢者の社会参加、所得保障その他諸々(さらにはそうしたものが足りない場合に増えるであろう介護・医療支出)を個々の政府支出で直接支えるのと、有料駐輪所で多少余るくらいに人間を配置するのと、どっちが効率的かは、そう簡単に答えが出る問題ではありません*2

 経営者が関心を持つ効率性と「すべての人間が生きていけるようにする」ことを目的として政策評価する人が関心を持つ効率性は異なります。前者の効率性が後者の効率性を高めるように働く面はあるのではありますが、完全にイコールではないのも当たり前ですし、無視してよいほど小さいものでもありません。

 そうした中で、経営者的視点からしか効率性を考えない人たちは、善意に取るならば、「無駄だ」といわれた人たちが企業の外に押し出されて、どこでどんな生活をすることになるのか考えていないのでしょう。悪意に取るならば、当然「死ね」といっているわけです。まぁ、とりあえず善意に取ることにしましょう。その場合、経営者的視点からしか効率性を考えない人たちの蔓延は、社会的な非効率を増大させることになります。結局のところ、賢しげな経営者ぶりっ子の出す答えというのは、その程度のものです。

 しかし、その程度のものが社会的に実現する解になるのには理由があります。簡単には、去年の9月に書きました。一番人びとを叩き、一番コストのかからない低い厚生水準に留めた企業が一番強いのであり、企業にそれを許す国家が一番強いわけです。だから、その方向へ押しやろうとする重力*3が働きます。それに抗うのは一筋縄ではいかないわけですが、それを追認して恥じないのは抗う以前にコケている実に滑稽な姿であるわけです*4

*1:もちろん、アマルティア・センの「何の公平か」から来ています。

*2:当たり前ですが、他にもっといい方法があると言うなら、それは間違いなくあるでしょう。

*3:シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』より。

*4:しかし笑えないわけですが。私見によれば、こういう「経済がわかる」「経営がわかる」「社会の現場がわかる」人たちが言う効率性の恣意性を見抜けるようになるためにこそ、経済学の勉強をすることは意義があるのだと思っています。