モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

国家と反国家──(2)教育

 「国家と反国家──(1)憲法 - モジモジ君の日記。みたいな。」の続き。


 個々の人間は国家に保護されつつ、国家を構成し、国家に抑圧される。国家が保護しつつ抑圧する装置であるという両義性を視野にいれて考えなければならない*1
 国家が、個々人のための国家であるためには、国家が体現していないもの、現に存在してはいないものが生まれてくる領域がなければならない。目の前にある世界とは違った世界を構想することが許されている領域、および構想するための力が必要である。すなわち、様々な精神的・身体的自由、および自由な知性が必要である。
 こうしてみれば、教育の役割の少なくとも一つがハッキリしてくる。それは現にある国家が体現していない何かを構想しうる自由な知性を育てることである。行政・立法・司法の各種国家権能が、互いに互いを従属させるようなものではないのと同様に、教育は国家に従属してよいものではない。国家と教育の間にあるべきは、国家による統制と介入ではなく、対等な緊張関係である。国家の機能を認めつつ、しかしその害悪を減らそうと考えるとき、教育は国家に従属してはならず、存在しない別のあり方を構想する余地として(すなわち、反国家的想像力の源泉として)、国家に対峙しなければならないのである。
 このような教育の役割を考えるならば、国旗・国歌の問題に対する度し難い鈍感さは理解できない。一体国家という装置を何だと思っているのか。無条件に信頼すれば絶対に悪いことはしない全能なる父上様とでも思っているのだろうか。そうでないならば、それは悪さをしうるものであると「現実的に」考えているのであるならば、国家のもたらす抑圧に抗しうる領域としての教育を国家に従属させることなど、想像もできないことである。国旗・国歌の類は、「嫌がる人がいるから学校にはないほうがいい」という程度の生易しい話ではない。我々国民が、国家を支えつつ国家に対抗するという両義的な位置にあることを忘れないために、むしろ教育の現場にはあってはならないものだと言うべきである。まったく同様に、政府与党が目論む教育基本法改正案もまったく論外というべきものである。国家は、進んで反国家的なものに滋養を与え育てることなくして国家本来の役割を果たしえず、国家が教育を従属させるならば、やがて国家は、国家そのもののための国家(つまりは、本末転倒な国家)に変貌していくのである。
 ただ国家を支えることと、個々人のためであるような国家を支えることは異なる。後者の道を行くには、国家を支えつつ国家に対峙するという、両義的な行き方が不可欠である。必要とあれば「非国民」になれる者だけが、本当の意味で国家を支える。無邪気になつくだけの者は、国家を腐らせること以外の何をもたらすこともできない。

*1:ある意味で、国家を考えることは、砂山に刺した棒を倒さないように砂を取り除いていくゲームに似ている。何も考えずに砂を取り除いて棒を倒すのも愚かだが、そもそも砂を取り除く必要を考えていないのも愚かだ。