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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

不十分さについて

 昨日に続いてid:inumashさんの別記事へのコメント。
 http://fragments.g.hatena.ne.jp/inumash/20060331#1143813245 より。

僕は単に「正義」や「倫理」をそれほど信用していないだけです。僕は精錬潔白な人間ではないし、悪意や負の感情を抱えている。で、それによって物事を見ること、表現する事の快楽も知っている。

それをクリアさせるのに、「倫理」や「正義」を語るだけでは不十分なのではないか、というのが僕の意見です。「悪意による快楽」に代わるインセンティブを、「倫理」や「正義」によって十分に担保することができるのでしょうか。残念ながら、僕はそうは思えないのですが。

 僕はここでinumashさんが前提にしていることに反対しない。僕は正義や倫理を「それほど」信用していないし、それを語るだけで「不十分」だと思うし、悪意による快楽に代わるインセンティヴを「十分に」担保できるとは思わない。にも関わらず、これらの諸前提は、倫理や正義を語ること、倫理や正義を持ち出して議論することを否定しない。正義や倫理を語ることだけで十分ではないが、それを語ることは効果を発揮することもあれば、それを頼りに圧力をかけることもあり、悪意に代わるインセンティヴを提供することもある。だから、「そこそこ」使える。よって、ここでinumashさんが何を批判しようとしているのかは、よく分からないことになる。
 inumash氏は「不十分だ」と抽象的に述べるのみで、その不十分さを具体的に描くこともなければ、その不十分さに迫る方法も示さない。しかし、そんなところはとっくに通り過ぎた場所だ、と言っていい。その上で僕が取っている方法とは、倫理や正義を語るだけでは足りない部分は、倫理や正義を語りつくしてみることによって明らかになるだろうから、まずはやってみる、ということだ。この方法で「十分に」明らかになるとは言わないが、明らかになることはあるから、やってみたらよいと思ってやっている。少なくとも言えることは、不十分さを唱えるのみでそこから動かないならば、不十分さの正体など分かるはずがない。どのようなやり方でもよいから、不十分さの解明に向けて歩き出す以外にやれることはない。

僕が素晴らしいと思う社会は、「倫理」や「正義」によって「悪意」を駆逐する社会ではなく、それらも込みで個々がリスクを分散しながら対話を重ねる社会です。だから、「倫理」や「正義」は個々が抱えていれば良いし、それらをぶつける事によってまた別の視点、別のアイデアを絶えず生み出していければいい。それは「倫理」や「正義」がベースであっても構わないし、「悪意」がベースであっても構わない。それも含めて「社会」でしょう、というのが僕の意見。

 これもまた、大筋反対しない。しかし、どうしてinumash氏の前回のエントリで批判的に紹介されたところのこの記事自体が、「それらをぶつけることによってまた別の視点、別のアイデアを絶えず生み出す」プロセスだということが見えないのか。それが不思議なのだ。「倫理」や「正義」にかえて「悪意」をベースとして自身の視点を作ったって、そりゃ構わない。というより、事実としてそういうことがあるだろう。そして、「悪意」をベースにして作られたものは、そのベースにある「悪意」を暴かれることで大きく力を失ってしまう脆弱なものであるという「別の視点」が示されているわけだ。そして、「悪意」のような脆弱なものではない、別の何かを基盤にしたものに移行していくように促しているわけだ。
 当然、「悪意」をベースにした場所で防御を尽くしたっていい。しかし、その防御は「悪意を隠すこと」をどうしても含む以上、あまりうまくはいってないようだ。ならばどこかに移動するしかないが、そのときに「倫理」や「正義」以外の何かをベースにしていけないわけじゃない。そこに立ち位置を定めて、それを「別のアイデア」として提示していけばいいだろう。そこにも「倫理」や「正義」をぶつけることは可能で、それに耐え切れるかどうかが試されればいい。

もっと直接的に言うと、自分に向けられたものも含めて、僕は悪意や負の感情がベースになった表現を受け入れることのできる社会がいいなあ、面白いなあと思うだけです。

 ここでの「受け入れられる」の意味が、やはり曖昧だ。受け入れるとは、そのような表現が可能であるということだろうか。それとも、表現が可能であると同時に批判からも自由であるということだろうか。しかし、異なる意見を「ぶつける」ことを否定していないのだから、後者の意味はないだろう。とすれば、前者だ。
 これについては、僕も反対しない。たとえば、いじめや差別の表現をするものが、それが不可能であるように処罰されるべきだとか、そのような人間から表現の機会を奪うべきだとか、表現の道具を取り上げるべきだとか、そういうことを言うつもりは、少なくとも今のところない。むしろ、いじめや差別の表現が現れたとき(それらの思想は断固として「間違っている」と思うわけだが)、それをきちんと批判し、その強度を試す人々が実際にいなければならない、とは思う。悪意ある表現も、一つの表現であり、だから可能性である。しかし、一つの表現であり、可能性であるからこそ、その悪意ある表現に「マジレス」するのだ。そして、そのマジレスを正面から受け止めきれずに隠れようとするからこそ、悪意を基盤とした表現は基本的には脆弱だし、しばしば打ち破られることになる。
 しかし、悪意や負の感情がベースになった表現というものについて、少し考えてみるべきことがある。悪意や負の感情を持つ人たちは、その感情を本当に表現しようとしているのだろうか?それは、いじめ、差別する対象に対して表現しようとしながら、いじめ、差別することを批判する世界に対しては、むしろ表現しないですませよう、隠れようとしているのではないか。それがこのエントリなんかでも批判したことだ。僕は悪意や負の感情がベースになった表現を覆い隠すというよりも、むしろ燻り出そうとしているわけだ。

あとは、倫理的な正しさを問う対話よりも、「それよかこうした方が楽しいじゃん!!」という形でアイデアを出し合う対話の方が建設的だろうと思ったので。そのほうが、いつまでも泥仕合を続けるよりもいいんじゃないですかね。この辺の苛立ちみたいなものも含めて。

 泥仕合が泥仕合にしか見えないのは、それは傲慢な、あるいは少なくともせっかちな見方だと思う。僕は悪意や負の感情から現れ出る表現のひとつの手口を明らかにした。そして、悪意や負の感情が、現れ出ながらも隠そうとする尻尾の存在を指摘した。僕はいじめや差別にあう人たちに、そのような尻尾の存在と位置を理解してほしい、目の前の具体的な差別発言をそのような構造として把握し言語化してほしい、と考える。それはいじめや差別といじめや差別をされる本人が戦うための重要な*1手段だと思うからだ*2
 差別やいじめはありとあらゆるところにあるし、そして汲めども尽きぬものだし、しかし、それらのすべてが抗うことのできない強力なものではないし、局地的な抵抗であっても勝利を収めることが可能な状況はいくらもある。また、抗い難い強力な磁場が働いているところであっても、周囲の多くの小さな磁場が取り除かれることで、その力を弱めることは可能なわけで、その意味で、抗うことが可能なあらゆる場所に抗うための方法を一つ提供することには、泥仕合以上の意味はあると思う。迂遠なやり取りだろうし、もっと効率的なやり方がある可能性を否定しないけれども、不毛な・無駄なやり取りだとは、僕は思わない。


 最後にinumash氏自身を批判する。あなたの「苛立ち」とは、本当に正義や倫理の不十分さ、正義や倫理が語られる場の泥仕合ぶりに対して向けられたものなのか。それとも、正義や倫理が語られるという事実そのものに向けられたものなのか。そこを自ら問い詰めることからやりなおさないといかんのじゃないかと思う。最後のこの言葉は、僕からinumashさんへの呼びかけ。

*1:唯一にして十分な、ではないにしても。

*2:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060402http://d.hatena.ne.jp/neko-yashiki/20060402なんかも、そういう意図を汲んでいただいたものだと思う。ありがたい。