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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

多様性は事実であり、価値ではない

 昨晩あげた「<アンチであること>は本質でありうるか - モジモジ君の日記。みたいな。」に対して「「本質」という概念そのものを無効化する戦術 - 想像力はベッドルームと路上から」というお返事が戻ってきた。この中で、特に次の一文が、このところ僕が疑問に思っている点である。

僕が社会において最も重要だと考えるのは、「どれだけの選択肢を確保できるか」という視点です。その選択の是非は問いません。

 模範的なリベラルにおいて多様性はほとんど必ず守られるべき価値として提示されるのだけれど、僕はそこには誤解、少なくとも詰められてないところがあると思う。

多様性は無前提によいものか

 これに関連して、以前、「政治における多様性・新自由主義などいらない - モジモジ君の日記。みたいな。」というエントリを上げたことがある。僕は「新自由主義的な思想を持つ人が現にいる」という意味での多様性を不要だと思う。「難病者や障害者など、全部死んでしまえばいいという人が現にいる」という意味での多様性も不要だと思う。たとえば言論の自由というときに重要なのは、そのような思想も持って構わないという選択可能性のレベルの話、選択肢のレベルの話であり、それを現に今ここで表現している人がいる必要はないし、それを信じている人がいる必要もない。
 もちろん、そうした思想が現に存在することで、それを反駁することによって、それを反駁しうる思想が生まれてきて、という形で、多様性が生み出すものはある。しかし、それらとて、それを生み出すことがアプリオリにいいことだとか、それらもひっくるめて全部なくてもやっていけるものだとかいうことは十分ありえることだ。
 つまり、多様性はひとまず単なる事実であって、よいとも悪いとも言えないし、言わない。多様性は単なる事実であるから、しかし事実ではあるから、多様なあり方が可能であるように、たとえば表現の自由というようなプロジェクトによって擁護されているべきだとは言えるとしても、それは多様であることがよいからだ、とまでは言えないように思う。また、そこまで言う必要もない。

何が抑圧なのかは、具体的に記述される必要がある

「<現にそうである私>を力強く肯定する力」というものが魅力的であることを認める一方で、同時にそれは他者を抑圧する力にもなり得るということも自認するべきだと考えます。

 これを自認するのにやぶさかではないけれども、まぁ、そりゃそうだよ、というだけのものでしかないと思う。端的に、ゲイ・レズビアンがどこにおいても許されないような、そういう存在が許されないことを望むような人がいるとして(いる)、そこでゲイ・レズビアンの表現はこの差別者たちに対して抑圧的に働くと言えば言えるだろうけど、それは当たり前の話であって、ここから広がる論点があるようにも思えない。そして大事なことは、ゲイ・レズビアンを自認する人たちがゲイ・レズビアンであることによって、それを嫌う人たちの物理的存在条件はほんの少しも脅かされないという唯物論的な事実だ。
 だから、inumashさんが「抑圧する力にもなりえる」ということで何か考慮すべき大事な論点があるのだと考えているなら、そこはもっと具体的に記述される必要があると思う。今のところは、「そうだよ。で、何か」という切り返しで済ませてよいレベルの話に見える。

<アンチであること>は免罪符にならない

カウンター・カルチャーは、世界が歪んでいるかいないかに問わず、常に「正しさ」という規範を凝視し、疑問を投げかけ、それとは別の選択肢を提示します。即ち、カウンター・カルチャーは既存の価値に取って代わることを目的としているのではなく、「別の可能性」を提示し続けることによる社会のセーフティーネットとして機能するものなのではないでしょうか。

 世界は歪んでいないことを証明できないので、常に歪んでいると想定されるべきで、現にある規範に疑問を呈して良いと励ますことは大事だと思う。純粋に形式的に、そのような批判精神を称揚する表現があるとして、それは別に悪くないとは、言えるかもしれない*1
 ただ、それでも問題だと思えるのは、次のようなこと。つまり、ある表現が、具体的な内容を伴って現行規範に対するオルタナティヴを提示しているとき、そのことによって批判精神の可能性を(少なくとも具体的な選択肢を一つ示すことによって)示しているとは言える。ただ、それだけに留まっているわけでもない。そこに伴われている具体的な内容についての批判があるならば、その内容のよさにおいて擁護すべきだと思うが、それはなされない、ということが実に多い。具体的な中身を伴っているはずなのに、可能的なオルタナティヴを形式として擁護しているだけであるかのように主張するのは、ある種のトリックである。
 ここは分かりにくいので、少し噛み砕いて説明する。たとえば、暴力的な、そして暴力的である以外に何の価値も見出せない(と僕には思える)ような性的表現があるとき、僕はこれを不快であると思う。もちろん、これを禁止するかどうかは別の話で、とりあえず表現の自由をここでも認めると仮定する。表現してよいとした上で、しかし、その表現を僕は内容において批判するだろう。暴力を称揚する以外の何の意味も見出せないし有害である、と。これもまた表現の自由の行使である。そのとき、その表現者が「表現の自由だ」とだけ主張するならばそれはあまりにも的はずれなのである。具体的内容を提示してしまうからには、その具体的内容を内容において擁護するのでなければ、ただだらしなく何かを垂れ流して、無批判に受け容れよと言っているのと同じことにしかならない。せめて、それが「暴力的であるだけではなく、具体的内容として擁護されるべき価値を含んでいる」「暴力的ではない」「暴力的であってよい」どれでもいいが、何か言うべきだろう。しかし、腹をくくってこの責任を引き受けている人は実に少ない。現にある規範を批判することが大事だといいながら、そのときに自分が示してしまっている規範を批判することは許さないような振舞いになっている。これは横領であると僕は断じる。そして、主に性的表現に関してもめているとき、意図的にはどうかはともかく、大抵の場合はこのすり替えが行われる*2
 既存の価値を疑え、というメタな態度を表現したい場合でも、それが具体的内容を伴っているならば具体的内容について擁護すべきだろうし、擁護しないことは既存の価値を疑いつつ対抗価値を疑わせないというアポリアに陥っているという意味で既に失敗である。あるいはメタな態度だけを具体的内容を伴わずに表現することが可能ならそうすればいいわけなんだけど、それはちょっと管見の限り、知らない。

相対主義のソフト・バージョン?

確かに、「青い芝の会の綱領」はそれ自体力強く、胸を打つ表現だと思います。ですが、それはあくまでも「一つの視点」に過ぎません。それよりも、「悪意」や「ユーモア」に裏打ちされた、社会に対峙する場合のアイデア・戦術にこそ可能性を感じるのです。

 それを肯定しても否定してもよい、受け容れてもよい受け容れなくてもよい「一つの視点」としてあるのではなく、人が人である以上、生きている存在である以上、否定することのできない「一つの真理」であると考えている。そして、真理ではなく選択肢の一つであると言いたいならば、ここに示された思想を否定したどんな思想であるのかを、具体的に探求し、提示すべきであると思う。
 どうも多様性は無前提によいものとされていたり、対抗していること自体に価値があるとされたりしているわけだが、それはなぜなのだろうか。それはいつの間にか前提に滑り込んでいるだけではないのか。inumashさんのエントリのタイトルは「「本質」という概念そのものを無効化する戦術」なのであるが、「本質」という概念がそもそも無効なのかどうかを問わずに、このような戦術の有効性は測れないはずだが、ここでもまたこれは前提とされているのであり、擁護されているのではない。こういう態度は悪しき相対主義のソフト・バージョンではないかと僕は疑っているのだけれど、そして、穏健で良質なリベラルたちの間にさえ*3蔓延している病癖だと思うのだけれど、どうなんだろうか。多様性を、それ自体として擁護する議論を、誰か教えてくれないだろうか。

*1:個人的には以下の疑問がある。内容を擁護しつつ現行規範に反することを実際に主張することで、そしてその主張が抵抗に合いながらも否定しきれないことが討議によって示されることで、批判精神の重要性も同時に表現しえると思っている。そして、それに付け加えるべきものなどないように思うので、ただおかしいと思ったらおかしいと言っているだけでいいんじゃないかとは思う。もちろん、具体的内容を伴わずに批判精神だけを提示するような表現をして悪いわけじゃないので、それをしたい人はすればいいとは思う。ただ、後述するように、そのような純粋に形式性を擁護する表現はちょっと見当たらないぞ、かなりヤバいもんが隠れてるよ、という危機感を持っている。

*2:逸脱的性表現を擁護するロジックのねじれについては、僕の記憶が正しければ、紙谷雅子「「性の商品化」と表現の自由」から学んだ。『性の商品化―フェミニズムの主張〈2〉』所収。

*3:あるいは「だからこそ」?