モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

<アンチであること>は本質でありうるか

かつて左翼が既存のシステムに対抗して生み出した戦術や表現の中には、それこそ「そこでしか生み出せなかった美/快楽」が存在しているのだと思います。68年のパリ五月革命然り。ウッドストック然り。セカンド・サマー・オブ・ラブ然り。

アビー・ホフマンやKLFの痛快さは、それこそ彼らが対抗する「権威」や「権力」があってこそ際立つものです。そうした文化に触れる機会をつくること、そうした視座を失わないことこそ、「左翼」に求められていることではないかと思います。
足りないのはKLFとアビー・ホフマンなんじゃないの? - 想像力はベッドルームと路上から

 「2006-03-20 - モジモジ君の日記。みたいな。」関連。このあたりは考えどころだと思ってる。
 まず、カウンター・カルチャーと呼ばれるものがなぜ魅力的なのか。あるいは本当に魅力的なのか。たとえば僕の場合、カウンター・カルチャー的なものがあまり好きではない。てゆーか、少なくとも、それが「カウンターだから」という理由で好きなわけではない。「http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060320/p1」で引用されてる青い芝の会の綱領は、そのカウンター性に魅力があるというよりも、生と生へのストレートな欲望にこそ魅力があると思ってて、それが現にある社会へのカウンターになってるのは結果論だと思ってる。また、カウンター・カルチャーとして性的表現が出てくることはあるけれど、たとえばゲイやレズビアンの表現、セックスワーカーの表現に心を動かされるのは、<現にそうである私>を力強く肯定する力を感じるからだ。少なくとも僕は。それはそうした人たちが社会的に承認された世界においても魅力的な表現であろうと思う。他方、カウンター性だけが前面に出た表現、その魅力を「逸脱」とかそういうキーワードでしか表現できないものってのは、実に薄っぺらなものにしか見えないのだ。「支配的な性規範からの逸脱」としか説明されないポルノグラフィってのは、何の魅力も感じない。それは言うまでもなく、支配的な性規範に魅力を感じるかどうかとはまったく関係がない話である。


 以上のことから、次のように考える。現に歪んだ世界だから、それを歪んでいると喝破するカウンター・カルチャーの魅力が光るというところはあるけど、だからといって歪んだ世界を求めるようになるというのは倒錯している。その意味で、「2006-03-18 - 催涙レシピ」に深い洞察を感じつつも、日の丸・君が代だけでなく現にある学校体制の抑圧全体が問題であるという問題意識として読み替えつつ、やはり日の丸・君が代強制には僕は反対する。僕はアイロニーの道は採らない。

追記 僕はアイロニーの道は本当に採らないのか

 これはかなり語弊があるなぁ。たとえば昨年末のビラ裁判に関わるid:Nazume氏とのやり取りにおける僕の対応はメチャクチャアイロニカルであった。これは言葉を接ぐ必要がある。僕は、そこに主張される実質を置き去りにして、アイロニーであることだけによって何かを主張することはない、という意味です。というより、そんなことが本当に可能なのか、とさえ思っている。それは言い換えると、僕がアイロニカルな表現をしているとき、「その表現で何を言わんとしているのですか」と聞かれたならば、アイロニカルではないストレートな表現での言いかえができるような何かを常に想起しつつ行う、という意味。>というわけです。>id:t-hirosakaさん