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自らを供物として捧げること

 内田樹の研究室: サラリーマンの研究
 内田樹の研究室: 不快という貨幣

 巷で話題になってるらしい内田樹氏の論考。<労働とは、自らを供物として捧げること>というのは同意する。しかし、現代社会(資本主義体制)においては、供物として捧げた労働の成果を誰かが囲い込んでしまってるんであって、つまりは、供物として捧げようと思ってもできないような仕組みになってるのが問題なんだろうに。


 自らを供物として捧げるのは、それによって生きられる人が増えたり、困難な情況にある人がその状況を少しでも和らげられたり、そういうことがあるから捧げることに意味がある。他方で窮乏している人がたくさんいるにも関わらず、物質的にもう十二分に満ち足りた連中のBMWがもう一台増えるとか、そういうことのために供物を捧げるのは疑問を感じて当たり前だし、むしろ疑問を感じないことは問題だとすら言っていいと思う。奴隷根性が奴隷制を支えるという意味で。
 彼はそこにある社会をほとんど批判することなく、ただただそこに住む人間がそこに順応することだけを問題にする。なんでそんなことになるかと言えば、自然‐社会‐個人という構図において本当に与件として動かせないのは〔自然〕だけなのに、内田氏は〔自然‐社会〕を与件として捉えているからだ。かなり胡散臭い保守ではないか。猿虎さんが要約紹介してくれている藤田一勇氏の指摘は、内田評に当てはめても適切だと思う。

 ところで、藤本一勇氏は、『批判感覚の再生』/の中で、現在跋扈している「保守」主義を、冷戦後の状況の中でポストモダン思想とねじれた共犯関係を結んだ「ポストモダン保守」と呼んでいます。著者によるとそれは、本来の保守主義美徳すらかなぐり捨て、空虚な自己を確認するために「敵」叩きに熱中する「狂った保守主義」です。さて、著者も言うように、現在の状況は、自由で開放的とされるグローバル市場が広がる一方で、一見それと対立する統制的・治安維持的な空気が蔓延しているという一種のねじれ現象と見ることができます。著者は、このねじれ現象の背後に、ネオリベラリズムネオコンサバティズムの相補的構造というか共犯関係があると指摘するのです。
kawakitaさんへの返答 - 猿虎日記(さるとらにっき)

批判感覚の再生―ポストモダン保守の呪縛に抗して

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