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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

反省:批判は一人一人の具体的な<顔>を想起しつつなされねばならない

考察

 僕とid:fenestrae氏の立場を単純に図式化するならば、次のようになる。

mojimoji フランスのメディアは偏っている。
fenestrae フランスのメディアが偏っているとは簡単には言えない。

既に述べたことだが繰り返すなら、僕の立場の根拠は、軍事占領・入植地・分離壁という背景を根拠として、中立的な立場とはほぼ全面的にイスラエルに非があるとする立場である、と主張する。少なくとも論理的には、フランスのメディアが偏っていると簡単に言える。と僕は考える。だが、しかし、と話を続ける。
 さて、ここで僕は「論理的には」という語を挿入している。これは大事な点だが、しかし、すり替えの危険を孕む。「心情的には」という語を挿入した場合にはどうか。これは簡単に言えない、という話なら分かるところもある。たとえば、「フランスにはさらにユダヤ人の差別問題もあり、中東問題に対する発言は、これと切り離して考えることはできません」と述べている。これについては、「フランスにはユダヤ人差別問題のデリケートさがあるがゆえに偏っている」と言えばいいのであって、依然、偏っていると言えると考える。基本的にはこれでいいと思う。しかし、これは難しい状況の中で仕事をするフランスのジャーナリストに寄り添うものになっているとは到底言えまい。id:t_keiさんが拘っているのはこの点のような気がするけど、どうだろう。fenestraeさんもこの点に拘ろうとしているのであれば、今はそれを理解したいと考えると共に、やりとり以前には考えもしなかったことであることを白状する。以下は、それも含めて考えたことである。


 大事な点なので、再度確認しよう。パレスチナにおいて知られている事実と照らし合わせる限り、「イスラエルがすぐさま占領を終わらせること」を前面に掲げない報道はすべてイスラエル側に偏っている。このように言わねばならない。これを僕は撤回されてはならないことと考えている。これを手放さずに考えを進める。
 この主張から単純に引き出されることは、「フランス・メディアは偏ってない報道をせよ」との要求である。では、それはメディアに可能なのか。すぐさまこのような問いが立てられねばならない。おそらく、メディアに関わる人の間には、その人が真実に忠実であろうとすればするほど、苦悩と煩悶があるだろう。そこには所属メディアの意向があるだろう。スポンサーの意向があるだろう。それを反映した上司の意向の中で個々の社員が働く。フリーのジャーナリストもこうした問題とは無縁ではない。そもそも集めた材料を使うかどうかは、メディアの所有者(あるいは所有者からの受権者)が決めることである以上、意向に反した材料はメディアにのらない。そうした圧力の中で辛うじてパレスチナ側の素材が報道されるのであろう。
 しかし、にも関わらず、このような報道は偏っていると言わざるを得ない。作り手がどれほど苦労しようとも、どれほど苦心を重ねようとも、それらはすべて、パレスチナに関する事実となされるべき価値判断との関係においてのみ、評価されるべきものだからだ。メディアに関わる良心的な人たちの努力が無駄だとは言わない。偏りをある程度マシにはするのだろうし、それは尊い。しかし、結果出てきたものの偏りを測る物差しは、パレスチナの現実とあるべき理想との距離だけである。
 そして、これが一番大事な点だが、報道の歪みに立ち向かう良心的な人々を支援する唯一の方法は、現れた報道をイスラエル側に偏ったものであると批判し続けることである。そもそも、なぜ良心的な人たちは限定的ながら勝利をあげることができるのか。僕は確信するのだが、それは真実と道理において報道せよという一定数の人々の圧力があるからに他ならない。そのような人々の存在があるからこそ、ある種の意向に反するような材料をメディアにのせることができる。良心的に活動しようとするジャーナリストにとって、人々の間に広汎に良心が存在することは補給線のようなものであり、それなくして良心的ジャーナリズムはありえない。


 その上で、僕は一点だけは過ちを認めたい。認めざるをえない。フランス・メディアは断じて偏っていると僕は述べるけれども、良心的なジャーナリストに寄り添うような別の言い方があるだろうこと、そのような言い方をすべきだったと思う。しかも、僕はつい最近、id:ajisunさんに似たような間違いを指摘されている*1
 僕は「彼らは」「フランス・メディアは」という言い方で取りこぼしてしまうものに、無頓着すぎる。fenestraeさんが、僕のフランス・メディア批判を聞くとき、そこに働いている具体的な一人一人の顔を思い起こしているとすれば、反発は当然だろうと思う。だから、その点については考え直したい。fenestraeさんのおかげで、少なくとも具体的な誰かがいるのだろう、というイメージは思い出すことができた。しかし、その上で言いなおすとしても、やはり「フランス・メディアは偏っている」という意味のことを言わざるを得ない。これはどうも譲れる点ではないように思う。どのように言うかは確かに問題であるけれども、偏っているかどうかは、やはり言わねばならないと思う。どうだろうか。

もう一つ、こちらは徹底抗戦

 以下は、上記内容とは外れる話。fenestraeさんが「その他、私が何を問題にしたかったのかは、野原さんの日記のコメント欄で、すでに一部お答えした」という件、これは次の部分のことだと思われる。(一部字句訂正済み)

▼ある記事を取り上げて「誰か代わりに反論してくれないか」という誘いがあり、そして「この人はこんなことも書いている」とんでもない人だという「通報」があり、論者どうしうなづきあいながら、そしてほとんど本人がこられなくなるような中での議論、怖くないですか。イラクで人質になった三人への掲示板でのバッシングと同じ構造を感じませんか。正直言って私はこの雰囲気は怖いです。あらためて日本が怖くなります。お二人とも抑圧された者の立場に立って記事を書こうとされているとお見受けするだけに、だれもが日常の議論の中で抑圧を生み出す構造を作り出すということについてセンシティヴであっていただきたいと思うのですがいかがでしょうか。

 イラクで人質になった三人に対してなされたバッシングは、それがバッシングであったから問題だとは、僕は思っていません。第一に、事実に基づかないことや憶測その他バッシングを目的にした「真実ではないもの」を大量に動員しつつ、当事者の言い分をあらかじめ遮断するようなやり方でなされたことが問題だと思っています。第二に、そうしたことを完全な匿名で行ったことによる歯止めのなさが問題だと思います。
 ま・ここっと氏の書いたことは批判に値することです。僕自身がリンクを紹介した記事(<差別が嫌なら名を変えりゃいい>という内容のもの)は、パレスチナに対する一方的な態度と共通するものです。僕から言わせれば、ま・ここっと氏がパレスチナに対して行っていることこそが、イラクでの人質たちに対してなされたバッシングに該当することです。それは占領の事実を考慮に入れていないという意味で、事実に基づいていないのですから。むしろ元々は、「この人はですね、名前変えれば差別はないんだから、変えない方が悪い、という意見を垂れ流しとった人です。ほんと、呆れますよ。」とだけ書いたのですよ。僕は。しかし、それではfenestraeさんがおっしゃるようなバッシングになるだろうと考えたから、http://malicieuse.exblog.jp/3189935/のリンクを追記して、書き込んだのです。ま・ここっと氏への批判は、単に氏のパレスチナ問題への認識としてだけではなく、その背後にある強者の論理への同化指向そのものを衝くようなものとして考えられて欲しいと思ったからです。
 そして第二点ですが、僕にせよid:noharraさんにせよ、継続的にブログを運営しているのであり、捨てハンドルでいつでも名を変えて遁走できるような状況で発言しているわけではないのですよ。それを言うならば、最近noharraさんのところにステハンドルでURLだけを書き逃げしていく人たち*2こそが批判されるべきでしょう。fenestraeさんのこの点についての批判について、僕は一切考慮する必要を感じません。少なくとも現時点では。