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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

fenestrae氏への再批判──偏りはどこにあるのか

考察

 先エントリに対してid:fenestraeさんより返答をいただいた。fenestraeさんのように自身の立ち位置について実に慎重な、良質なリベラルさを体現しているような人*1でさえはまり込む落とし穴が*2、今回の応答のそれぞれにおいて浮き彫りになっていると考える。これは重大かつ重大だとほとんど認識されていないことだと思うので、この論点をできるだけ大きな問題としていろんな人々の間に波及させたい。この落とし穴は、決して一人fenestraeさんだけのことではない。

# fenestrae 『私は別に両方を折衷した立場に立てとは一言も言っていません。フランスのマスコミを簡単にイスラエルよりと言っていいのかということに疑問を呈したまでです。フランスにはさらにユダヤ人の差別問題もあり、中東問題に対する発言は、これと切り離して考えることはできません。ちょっとした踏み違えで自分が差別者になる構造がある中での言説のありかたを理解していただきたかったのですが、しょっぱなでつまづいているので呆然としています。パレスチナ問題に対する認識は、mojimoijさんに踏み絵を踏まされるまでもありません。私は自分のパレスチナ問題に対する認識をまだ一言も述べていませんが、イスラエルの政策について私が mojimoji さんより批判的でないと保証できますか(笑)。が、私は他人の作った踏み絵競争にわれもわれも参加するのは嫌いな性質なので、別途、私の「信仰告白」よりももっと人のためになる記事が翻訳を用意したいと思っています。その他、私が何を問題にしたかったのかは、野原さんの日記のコメント欄で、すでに一部お答えしたつもりです。』 (2006/03/12 03:48)(一部誤入力訂正)
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060312/p1#c1142102889

 僕が書いたことは「フランスのマスコミを簡単にイスラエルよりと言っていいのかということに疑問を呈した」ことへの応答である。

  • 軍事占領、入植地拡大、分離壁建設*3、これらの事実を鑑みるならば、フランスのマスコミは偏っている、と言っていい。
  • つまり、fenestrae氏の疑問に対して否定的に答えている。

以上が僕の主張である。
 この主張に対して、「フランスにはさらにユダヤ人の差別問題もあり、中東問題に対する発言は、これと切り離して考えることはでき」ないからといって、何ら結論が変更されるとも思えない。また、id:noharraさんとこのコメント欄では次のように述べている。

全体的に親××というのは、個々の情報の検討でしか論じようがありません。
ただ、米経由の情報の多い日本よりも、フランスのほうがパレスチナ人の意見を直接を伝える情報が多いと言えると思います。自治政府の在仏スポークスマンがフランス語直接コメントします(Hamas になってから過渡期ですが)。ネットまで広げると、親ハマスのサイトでダイレクトにその主張を読んだり、その立場での豊富な情報が入ります。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060309#c1142097687

「まず、占領をやめること」。これを前面に押し出していない報道は、すべて抑圧者への何らかの譲歩を行っている。だから、いかに双方の言い分を報道していようとも、「偏っている」と評価せざるをえない。パレスチナ側の情報が豊富に報道される、ということは相対的にアメリカや日本とマシであるということを必ずしも意味しないし*4、仮にマシであるとしても、それは偏っていないことを意味しない。以上の追加的な情報を加味した上で、僕の主張を言い直そう。「ユダヤ人差別問題のデリケートさゆえにフランスのメディアは偏っている」と言うべきだし、「相対的にアメリカや日本よりマシであるが、そのフランスのメディアでさえ偏っている」と言うべきだ。


 メディアが偏っているかどうかは、事実との関係、なされるべき価値判断との関係においてのみ判断されるべきことである。もちろん、事実認識そのものが誤りうるからこそ、あるいは価値判断が異なりうるからこそ、ここには難しさがある。しかし、だから問えないわけではない。(1)事実認識が誤っていると思うなら、異なる事実認識を示せばいい。(2)価値判断で異なると思うなら、異なる価値判断を示せばいい。つまり、(1’)軍事占領の事実はないとか入植地は拡大していないとか分離壁など嘘っぱちだとか言えばいいし、そうでないならば、(2’)パレスチナ人の人権よりイスラエル人のそれの方が優越するとか、あるいはそもそもパレスチナ人の権利って何、とか言えばいい。論理的にはまずそのどちらかだろう。異なりうる可能性を指摘するだけでは何の意味もない。既に、僕らが仮説として使用できる事実、判断基準はある。だから、それとの関係において、偏っているかどうかを判断できるし、しなければ意味がない。異なる判断を示すならば、(1)か(2)のどちらかが示せるはずだろう。
 偏っていないまともなメディアを作ろうとする際に直面する困難さとして、ユダヤ人差別問題があるという固有の難しさがあることは認める。しかし、繰り返すが、この場合には「ユダヤ人差別問題のデリケートさゆえに報道が偏っている」というべきである。固有の難しさは、偏っているかどうかの基準を事実のレベルから切り離してよいことを意味しない。偏るに至る同情すべき事情がありえることを否定しないが、その場合には「同情すべき事情により偏っている」と言えばいい。偏りを何によって測るか。それは心底からコミットできる真実(の仮説)以外にない。それとも、(3)偏っているかどうかは、事実との関係以外の別の要素によって測られるべきである、と述べるのだろうか。それはそれで一つの答えであるけれど。(1)〜(3)どれでもいいが、是非お答えいただきたいと切に思う。

 お答えいただきたいが、「私は他人の作った踏み絵競争にわれもわれも参加するのは嫌いな性質なので、別途、私の「信仰告白」よりももった人のためになる記事が翻訳を用意したいと思っています」とおっしゃっておられるので、その通りになさるのであればfenestrae氏が答えることはないかもしれない。しかし、それでも僕は呼びかけたいと思う。事は好き嫌いの問題ではなく、人のあり方の論理的一貫性の問題なのだから。もう一つ、関連して氏のコメントを引用する。

# fenestrae:・・・怖いと思ったのは事実です。これはパレスチナ問題に関する私の認識とはまったく別の話です。私はそれについてまだ何も意見を表明しておりません。コメント欄での直接の対話で議論を進めたかったのですが残念です。ここで思い切って直接にお話しようと思った自分の「蛮勇」や、意を汲んでいただけると思った自分のナイーブさに後悔しています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060309#c1142100596

 僕の批判も、fenestraeさん自身のパレスチナ問題に関する認識とは別の話だ。決してズレた批判をしているわけではないと僕は考えている。また、語りかけることはいつでも「蛮勇」である。語りかけることは、いつでも予想外の応答が返ってくる可能性に開かれているしかどうしようもないし、開かれているべきものでもある。意を汲んでいただけるかについては、こちらとてそのように期待するし、それはナイーブなことであることを認めつつ、そのようなナイーブさだけが語りかけることを可能にすると述べたい。それは様々な良きものを可能ならしめる必要条件だろう*5。「蛮勇」も「ナイーブさ」もない世界がお望みでしょうか。僕はそんな地獄に住みたいとは思わないけど。
 僕もスタートダッシュで頭に血がのぼっていたことは認めざるをえないかな。それを悪いとは思わないけど。けれど、fenestrae氏にも、その蛮勇やナイーブさを、やはり肯定して欲しいと、思う。

*1:僕はfenestraeさんのブログを時々読むし、得がたい情報源の一つとして、またそのような情報源を作ることへのfenestraeさんの情熱まで含めて、尊敬している。

*2:あるいは、「だからこそ」かもしれないけど、そこはまだ分からない。

*3:僕は、こういう「三点セット」みたいな表象の仕方をすることに、少なからず痛みを感じるが、すべてを書き連ねることはできないので、こういう現実のもつ生々しさを捨象した表象を使っている。一例だけ示す。2006年3月10日のP-Navi infoよりの記事から引用。「その日の午前3時過ぎ、30人ほどのイスラエル軍の部隊がキャンプに侵攻し、彼らの家にも催涙ガスが投げ入れられました。/彼らの母親が呼吸器系の持病があり、催涙ガスのせいでひどい発作がおきて苦しんだために、アメル少年は危険を承知で窓を開けたところを口元を狙撃されたとのことでした。/家族が救急車を呼び、すぐに到着したのですがイスラエル軍の指揮官がキャンプ内に救急車を入れることを許さず、約2時間手当てをせずに放置した結果、彼は亡くなったとのことです。」無数のアメル君がいることを想起することは、感情的には辛いことだが論理的には容易いことだろう。

*4:実際マシであるかどうかは、日本も随分ヒドイので判断のしようがないが。

*5:僕はid:hazama-hazamaさんやid:mushimoriさんや、その他僕に語りかけてくる人たちの蛮勇・ナイーブさは僕にとってとても大事なものだし、それがあるから生きていることはたのしいと思えるような糧だ。すべてに応えることができないという物理的制約だけが、大変に恨めしいけれども、それもひっくるめて肯定するしかないんだろうなぁ。まぁ無限に時間があるならば、応答の価値も随分と目減りしてしまって興ざめかもしれないが。