モジモジ君のブログ。みたいな。

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自由な主体について

今奪われて苦しんでいる人が、その奪う側の頂点に位置している(様に見える)岩波書店の文庫なんか真面目に読みますかねぇ?……
http://nwatch.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_1d36.html

 岩波に限らず、食物さえ事欠いている人がいる世界で本を出版するということは、食物を奪って本を出版するということである。食物が行き届くまで本を出版するなということであれば、それは食物を行き届かせる可能性を、この世界から根絶することを意味するだろう。現実を動かすのは現実には存在していないもののイメージであり、現実に存在していないもののイメージは書かれたこと・語られたことの中にしか存在しないからだ。他者の食物を奪って書物を作り続けることの先にしか、可能性なんか存在しない。
 奪う側が作る書を真面目に読むのは、いつでも奪われる側だと僕は最近思う。書を読む人の多くは奪う人だけども、書をまじめに読む人の多くは奪われる人であると僕は思う。現に生の条件を奪われる人と、現に奪われる人を目撃することを「奪われること」として感受する人だと思う。奪われる人のすべてが読むわけではない。書を真面目に読むのは奪われる人々のそのまた一部だ。
 奪われる人が作ったビラの類を、真面目に読む人は圧倒的に少数派だ。真面目に読む人は、大抵は奪われる人だ。ゆえに、何かを真面目に読むか読まないかを決めているのは、それを作った奴が奪う側だからかどうかとは関係がないと考えざるをえない。あるいは、そこに使われている紙を作ったのは奪う奴らだとでも言うのだろうか。そこに使われている言葉を作ったのは奪う奴らだとでも言うのだろうか*1。果てしのない後退戦の末に、自らが戦う武器を自ら手放しているという不毛さだけは不問にされる。それは単なる怠惰さに過ぎない*2
 怠惰さは強いられた怠惰さだろうか。ある程度そうだろう。しかし、少なくとも僕が真剣に書を読むようになったのは、ちょうど今のrir君の歳に、労働紛争の当事者となったことがきっかけだ。人をして書を読むように強く促すのは、少なくともそのように促すものの一つは、奪われる経験だと思う。怠惰さや諦めを強いる圧力は、怠惰さや諦めだけを強いることはできない。そこに生命がある以上、同時に、生きようとする意思をも刺激してしまう。それを自分の中に発見するのは、それが自分の精神の中にしかないものである以上、自分しかいない。少なくとも、「私はそんなに強くない」と語れるほどに強い人には、まだ可能性がある。
 「それを読みゃあ一発で保守なんか辞めて左翼になる」。そんな魔法などあるわけがない*3。この本に書かれていることは、真の絶望である。そして、絶望しないために僕らが嘘を用いていることを教えてくれる。その上で、嘘にしがみつくか、嘘を捨てて自由に生きるかは己の選択でしかない。ただ、ヴェイユが言うように、「自分は自由たるべく生をうけたと人間が感じることを、世界のなにものも妨げることはできない」(p.81)と僕も信ずる。この世界で生きるということは、見捨てる/られることや不正取得された特権を振り回す/されることと無縁ではいられない。そんな世界であっても、人は自由に生きようとしてしまうどうしようもない何かを孕んでいる。だから、嘘だという指摘を10000回されてもそれでも嘘にしがみつけるほど強い人も、そうはいないと思うから、それに賭けている。

*1:僕は、自分が沖縄の言葉ではなく日本語を操っていることに多少引け目があった。今はまったくない。奪う者の言葉を使って表現できるという事実が、奪うことのできないものの存在を証しているように、今は感じることができるからだ。

*2:嫌倫家と似たところがある。

*3:むしろ、あってはならない。