モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

無力さのその先

 シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』より。

 われわれは現今の諸悪に対して完膚なきまでに無力である。ひとたびこれを明瞭に理解するならば、自身が直接その打撃にさらされる瞬間はべつとして、現状を苦慮する責任はまぬかれる。とすれば、現代文明の財産目録を作るべく尽力し、かかる未来を方法的に準備すること以上に崇高な責務があるだろうか。じつをいうと、これほどの責務は制限にみちた人間の生の可能性をはるかにこえている。他方、かかる道程に踏み出す人間は、まちがいなく精神的孤独と周囲の無理解を覚悟せねばならず、確実に既存秩序の敵対者からも奉仕者からも敵意を招くだろう。そのうえ、現在のわれわれと未来の世代の人びとを隔てる厄災にもかかわらず、今日の孤独な精神が鍛え上げた概念の断片を、場合によっては、未来の世代に偶然がとどけてくれると想定してよい根拠は、まったくない。
 しかし、このような状況を嘆くのは愚かしい。神の摂理と交わしたいかなる協定も、もっとも高邁な努力に対してすら有効性を確約できなかったのだから。もしも人間が、自分の内部でも周辺でも、その努力をなしとげた当人の思考のうちに源泉と原理を有する努力しか信頼しないと決意するならば、呪術的な操作に頼って、個々人のもつ微々たる力で偉大な成果を導きだすことを希うなど、いかにも笑止千万である。意志堅固な魂が、たったひとりでなすべきことを明確に了解するならば、断じて上述のような理由で幻惑されたりはしない。肝要なのは、現代文明のなかで、個とみなされる人間に権利として帰属するものと、人間に逆らい集団に武器を与える性質のものとを切りわけて、後者にかかわる諸要因を抑制し、前者にかかわる諸要因を発展させようと努めることだろう。(pp.142-143)

 「自身が直接その打撃にさらされる瞬間はべつとして」。これはつまり、視点を変えれば、「他者が直接その打撃にさらされる瞬間を横目にみながら」ということでもある。「呪術的な操作」とは、僕の理解するところでは、「レトリック」のことである。「真理」に寄り添って、自らに真理だと思えることのみを用いて事に当たることだけが、僕らにできることになる。