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嫌倫家テーゼの不毛さを拒否する

 「2006-03-02 - 恐妻家の献立表」で召還されてしまった。しかし、強制召還/強制送還、並べてみると、随分印象が違う。世界中の難民は、安全で快適に過ごせる場所に強制召還されるべきだ。と試みに言ってみる。以上、本論とは関係なし。

嫌倫家テーゼの隠された党派性を暴く

A:この世界では、誰かを踏みつけにしないで生きることは不可能である。*1
B:誰かを踏みつけにしている人は、「踏みつけにしないこと」を説く資格はない。(嫌倫家テーゼ)

 t-hirosakaさんのところでの引用を見る限り、引用されている嫌倫家氏は、Aを明示せずにBを主張しているように見える。しかし、Aは事実認識についての命題であるが、僕はこの命題を妥当だと思うので、これを導入する。そして、この二つのテーゼから論理的に導かれることを考える。それは次のようなテーゼである。

C:「踏みつけにしないこと」と説く資格のある人はいない。

 Cを真面目に受け取るならば、誰も「踏みつけにするな」と語らないことになる。これが意味することは、せいぜい現状維持であり、現存する抑圧はすべて温存せよと述べているに等しい。よって、Cを容認できない。これはつまり、A、Bのどちらかが容認できないことを意味する。Aは端的な事実認識であるが、僕はこの事実認識を妥当だと思う。ゆえに、おかしいとすればBである。

 ちなみにここで一つ考えてみる。Cは倫理を語ることの不可能性を意味するだろうか。「倫理=踏み付けにしないこと」であるならば、これは倫理を語ることの不可能性そのものである。しかし、倫理の中身はここでは固定しないことにしよう。つまり、この等式を前提しないことにしよう。もっとハッキリ言えば「踏みつけにしてもよいこと」を含む倫理は、ここでは語ることができる。とすれば、A+Bが含意することは倫理を語ることの不可能性ではなく、倫理を「踏みつけにしないこと」として語ることを不可能性である。これは既に倫理についてのある種の選択である。その意味で、B=嫌倫家テーゼは、その中立公正な外面とは裏腹に、明確にある一定の倫理にコミットする態度である。よって、Bはまず一度棄却するべきである。¬B(Bの否定)、つまり「誰かを踏みつけにしている人も、「踏みつけにしないこと」を説く資格がある」を置くことにする。この方が少なくとも中立的であるから。
 僕は次のように思う。フェミニズムに共鳴する専業主婦がいたっていいし、反戦運動・米軍基地反対闘争に参加する基地内労働者がいてもいいし、セックスワークをやめる自由を主張するセックスワーカーがいたっていいし、教育の抑圧性を主張する教師がいてもいいし、アカデミズムの権威を批判する研究者がいてもいいし、・・・キリがない。このような人たちはすべて、自らのありようの中に矛盾を発見し問い直し、そしてそれをエネルギーにしていくという人たちであり、こういう人たちだけが、世界を別な姿に変えていく可能性を持っている。嫌倫家テーゼは犯罪的なまでに不毛である、と。

表現と表現者の関係性はもっと豊かだ

 というわけで、Bを棄却したということは、一旦表現と表現者の関係を切り離したことになる。これは次の主張を含意するだろうか?*2

D:表現と表現者の関係を一切考慮する必要がない。

 表現と表現者の関係を考慮したときに初めて読み取れるものもあるだろう。だから、僕は受け容れない。¬D(Dの否定)、すなわち「表現と表現者の関係を考慮する必要がある」を選ぶ。しかし、これは¬Bと矛盾しないことに注意しよう。Bは表現と表現者の「ある具体的なつながり方」を意味しているのであり、¬Bはその「ある具体的なつながり方」を否定しただけである。別のつながり方の可能性を否定していない。

 むしろ、先に述べたCが含意すること(=「倫理を語ることの不可能性ではなく、倫理を「踏みつけにしないこと」として語ることを不可能性」)を導いたやり方は、Bとは別のやり方で表現と表現者の関係を問題にしたものである。より正確に述べるならば、表現と表現者の置かれた状況・文脈・コンテクストとの関係を問題にしたものである。Bで重視されている「表現者の行為」は、表現者の置かれた状況の一部に過ぎないし、単独で関係づけることは大抵不適切であるような材料に過ぎない。

 よって、表現と表現者の関係は考慮にいれてよい、むしろいれるべきだと僕は主張する。ただし、Bのような単純化された形、しかも予め結論の偏りを埋め込まれた形でではなく、具体的にどのような関係のものとして読むのか、なぜそのような関係を読み込むのかについての考察を含むような形で、示されるべきである。テクストとコンテクストの関係性から浮かび上がってくるものはとても豊かなものがあると思うけれど、嫌倫家テーゼの結び付け方は、その豊かさにまったく貢献しないがゆえに拒否されるべきだと、思う。

*1:hazamaテーゼと言ってもいいかもしれない。「バタフライ効果という希望 - モジモジ君の日記。みたいな。」およびそのまたリンク先のid:hazama-hazama氏のエントリを参照。ただし、hazama氏はCを完全に受け容れているわけではないように僕は感じる。AとBの間で悩みつつ、AもBも気にしていないかのように見える僕(や彼の言う左派)に苛立っているように見える。

*2:このお題はt-hirosakaさんがid:furuya-haruさんからいただいたものを拝借。