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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

バタフライ効果という希望

 http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/20060127#p1(1月27日)
 大分前にhazama-hazama氏からいただいて、まだ答えてないエントリについて(他にもあるけど、とりあえず)。 最後の方の、次の部分について考えてみよう。

モジモジ氏があるクリティカルな問題においてボランティア活動をしていたとして、他にもクリティカルな社会矛盾を目の当たりにした時どうするのだろうか。それは、実は無数にある。そもそも、現代日本人であること自体があまりに暴力的な生だ。恐らく、もっとも人間社会に有益なのは、私もモジモジ氏も今すぐ死ぬことだ。程度問題として、モジモジ氏は多少私よりマシなだけだ。無数の諸悪をわれわれは知らないか、あるいは見てみぬ振りをせざるを得ない。この暴力的な生に向き合わず、自らの無謬性を主張し続ける氏に私は辟易するのである。それは、私が抱く、左翼全体への懐疑でもある。

生きていることはよい。もちろん「私」も。

 「恐らく、もっとも人間社会に有益なのは、私もモジモジ氏も今すぐ死ぬことだ」。僕は、これを根拠のないドグマだと考える。おそらくhazama氏が言いたいことはこういうことだろう。

誰であれ生きているだけで、誰かを踏みつけにしている状況に、必然的に、ある。だから、誰であれ、その人がいなくなることによって、踏みつけにしている状況が少しマシになる。
∴ もっとも人間社会に有益なのは、私もモジモジ氏も今すぐ死ぬことだ。

 僕はこうは考えない。人が生きていることはいいことである。だから、僕が踏みつけにしている誰かも、僕も、生きていることはいいことである。誰かが死ぬことが人間社会の損失であるのと同じように、僕が死ぬことも人間社会の損失である。誰かが抑圧されていることが人間社会に対する侮辱であるように、僕が抑圧されていることも人間社会に対する侮辱である。僕はまだ生きられる。生きることが可能な生を、終わらせることは、それ自体悪である。僕はそう主張する。だから生きていて良い。僕は断固として自分自身の命に向かって、そう述べる。堂々と。否定したい輩は、覚悟決めてかかってくればいい。むしろ、僕は僕の命を肯定するからこそ、同様に他者を肯定する、ということが出てくる。低きに合わせることは論理的必然ではない。僕は僕が享受しているものが、万人が享受できるようになることを望む。また、万人に享受させるならば維持できないことがあるならば、少なくともそれが命に関わらないものであるならば、それは諦めてもいい。さらに、万人に「生きていること」を享受させることさえ不可能であるならば、僕は堂々と他人を踏みつけにして生きていく。
 ただし、万人に享受させようとしたら維持できなくなるようなことが何か、僕らはまだ何も本気で試したことはないのだから分からない。また、万人に「生きていること」を享受させることが不可能であるなどということも、僕らは本気で試したことなどないのだから、分からない。だから、僕は「できる」という前提を置く。それは僕らが共に生きるために必須の公理だからだ。そして、それは、不可能であることが明らかにされるまで、絶対に放棄しない。そして変わるべきは世界の方であり、僕自身の生(つまり生が変わるとは死以外にないわけだが)ではない。そう主張する。

正しく生きることの不可能性

モジモジ氏があるクリティカルな問題においてボランティア活動をしていたとして、他にもクリティカルな社会矛盾を目の当たりにした時どうするのだろうか。

 知れたこと。使える時間の範囲で関わる。時間が足りなければ関わらない。もちろん、僕はプライベートのたのしみのための時間を「使う」。その時間を使えば、人一人の命が救えるかもしれない1時間を*1、僕自身のリフレッシュのために、たとえばただ眠っているというだけのために、使う。ただ生きていること、生きて、くだらないことをすること。それが生きていることの意味だからだ。僕が戦うのは、誰でもがくだらないことをやってただただ生きていられるためであり、僕はそれを自分でもやる。
 その上で、そうした生活の中で、いろんな活動に少しずつちょっかいを出す(たとえばファックスやメールでの支援、駄文を書く、本を読む、出かけていって会議に参加する、作業を手伝うetc...)ことについては、無理やりいろんな隙間の時間の中に放り込んでいく。2時間で2時間分の作業しかできないと思ってるときに急にやるべきことが増えて、間に無理やり1時間の作業を挟み込むと、当初予定していた作業がやらなくてもよいことが判明して結局2時間に収まったりする。なるようになる。そんなところもある。もちろん、時間はいくらあっても足りない。どうせ足りないんだから、ある程度以上のところでは、自分の欲望を優先する。非難はしたい人はすればいい。そこは開き直って、活動もするし、活動から逃げもする。
 そして、このようにすることを、僕は正当化しない。正しい生き方だとは言わない。むしろ、この世界の今は、正しい生き方が不可能であるような世界なのだと言い続ける。

可能な区別の中に可能性を求める

 世界は、正しく生きることが不可能であるような世界である。少なくとも今は。しかし、そこでは倫理的にどのような区別も不可能なわけではない。このような世界でも、五十歩百歩などといわずに、不毛ではない区別をつけようと思えばつけられる。第一に、<正しくあることが不可能な世界>において、可能な世界に向けた努力をしている人、していない人という区別。第二に、<正しくあることが不可能な世界>において、それを事実として暴露し公言する人と、黙り込んで隠蔽する人という区別。このような区別は、十分に可能だ。
 このような区別は、僕らの理想からすれば実に瑣末な区別であるように感じられるけれども、まったく無意味ではない。そして、この瑣末な違いにおいてどちらのあり方を選ぶかさえ、その人の選択であるのだから、その選択をする主体として「見られる」。僕はそのように「見る」。そして、その圧力の中で、時には仕方なしにいろんなことを我慢しながら、ほんの少しだけ何かを背負う。向き合ったその相手を、ほんの少しだけ動かすためには、このような瑣末な区別でも十分に役に立つ。そして、僕は確信しているのだが、すべての人が背負うならば、一人一人が背負うべきことはさほど大きくはないはずだ。だから、僕はあらゆるところで、瑣末な差異を用いて、ほんのわずかでもいいから、その人を動かそうと試みる。愚直に。

懐疑の正体

この暴力的な生に向き合わず、自らの無謬性を主張し続ける氏に私は辟易するのである。それは、私が抱く、左翼全体への懐疑でもある。

 これに対しては、断固として「否」と言おう。左翼への懐疑は、その賢しげな身振りと裏腹に、<正しくない人々>として自他の区別を抹消しようという欲望から出てくる身振り以外の何物でもない。その証拠に、このような身振りは、僕が述べた二つの区別を隠蔽するという破壊的な効果以外に、どんな効果があるというのか。何もないではないか。
 左翼の中に、hazama氏が言うように「暴力的な生に向き合わない」「無謬性を主張する」バカがいることを否定しない。僕はそういう人を批判する*2。しかし、hazama氏は、一体僕がどこで、そのような暴力的な生を否定したというのだろう。無謬性を主張したと言うのだろう。そんなことは一度もないはずである。さらに言う。hazama氏は、暴力的な生を直視し、無謬性を主張できないことに気付いた上で、それを乗り越えたところにどんな生を描けるのか、本気で考えたことがあるのか。今からでも考える気があるのか。そしてこの問いはもちろん、hazama氏だけに向けられた問いではない。あらゆる人に、あらゆる場所で、僕はこの問いを向ける。

*1:僕がそれほどの力を発揮しうる人物であるかどうかは別にして。

*2:しかし、その人が現実に具体的な支援活動を通じて誰かを支えているという事実については、最大限の敬意を表する。