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『生きててもいい…?〜ひまわりの咲く家〜』

 金曜エンタテイメント『生きててもいい…?〜ひまわりの咲く家〜』@フジテレビ


 以下は(もし読んでいただけるのでしたら)、↑のリンク先のあらすじを踏まえて、読んで欲しい。とりあえず、僕は↓のように感じたのだけども、自信がない。ご批判あれば、いろいろ意見を聞いてみたい。
 このドラマの素晴らしかったと思う点は、人間がどうしようもなく不完全である、という事実から目を反らしていないところだ。あらすじを見てもらうと分かるが、里親母の仕打ちはなかなかにヒドイ。少し抜粋。

・・・また、千佳子(里親母)は、躾に厳しく何かにつけて真希(里子)に対して採点をした。家の手伝い、勉強のことを「ちゃんとできなかったらマイナス10点」というように。通知表を前に千佳子にプラスの点数を付けられる真希は単純に喜ぶのだったが、心の中では千佳子に見張られているようで、息苦しさを感じていた。

 そんな折、真希は千佳子に対してある疑いを抱く、日記を読まれているのではないかと。愛誠学園で真希は、晴一郎に相談する。憤りを感じ、机に仕掛けをする真希。部屋に戻るたびに、その仕掛けを確認するのだが、日記を読まれていないことがわかるとそれはそれで安心するのだった。しかし、…。

 しかし、あるとき仕掛けが外れていて日記を盗み読んでたことが分かり大荒れになる、という展開だ。この事件が決定的となり、真希は里親解消=施設へ行くことを希望し、それが実現することになる。その後、里親は半狂乱になって真希を取り戻すためになりふり構わぬ行動に出ることになる。


 この母親の行為を、多くの人が批判するだろう。とりわけ点数制度、日記の盗み見において、僕もこの母親の行為を決して擁護しない。最低である。真希の反発も並大抵のものではない。それは憎しみとさえ言えるかもしれない。まぁ、当然でもある。しかし、このドラマのスゴイところは、この母親の至らなさにも関わらず、それでも<里親家庭にあって児童養護施設には絶対にないもの>をきちんと描き出している点にある。
 真希にとって千佳子はうっとおしい存在である。憎しみさえ抱き、その抑圧に耐えかねて自殺さえ試みる。しかし、人間は、<他者>と関わるやり方を、試行錯誤の中で学ばねばならない。全力でぶつかる相手としての<他者>。逃げようとしても全力で追いすがってくる<他者>。生れ落ちる人にとって、<他者>という資源がふんだんに存在することは、おそらく人が育つに際しての必須の要件ではないか。
 このような<他者>は大抵の児童養護施設にはいないし、むしろ、いてはならない*1児童養護施設においては、大人という資源は圧倒的に希少である。そんな場所では、ある児童に対して全力を注ぐことが、別の児童の放置を必然的に意味してしまう。また、職員の継続的な勤務期間はさほど長くなく、数年でいなくなる。大人という資源の希少性と関わりの不連続性がもたらす問題の大きさは未知数であるが、無視できないほど大きいことは想像できる*2。必ずしも親である必要はないが、親以外の誰かがこの役割を果たすことは稀なのも確かだろう。
 このような観点から見た場合、千佳子は素晴らしい母親である。日記の盗み見など「絶対にやってはならない」とさえ言えるほどの精神的虐待の一つだろう。にも関わらず、彼女は不完全な人間のままで、真希を求めて追いすがる。行為において誤ったとしても、その存在において真希にとってかけがえのない資源であり続けた。考えてみれば、うちの親だってそれなりに不完全な人間だった。当たり前だ。人間なんだから。もちろん、親のやることに程度問題は当然あるとしても、だ。親への反発というのも、知る限り、大抵は、ある。よりよい母親たることは可能だろう。よりよい父親たることも可能だろう。しかし、欠点があることは、不在であっていいことを意味しない。
 もちろん、家庭でありさえすればよい、という話ではない。虐待家庭の問題もある。しかし、人が常に不完全でしかありえず、不完全なままに子の前に立つのが親の宿命である以上、意図せぬ虐待は完全には防ぎ得ない。それは施設でも起こるし、施設ではもっと頻繁に、苛烈な形で起こる。しかし、虐待の話は一旦やめにしよう。少なくともなぜ里親制度を、断固として児童養護施設より優れたものとして提示するかと言われるならば、それは<他者>という資源の絶対量ゆえに、と答える。虐待は重大だが、少なくとも別の問題である。


 千佳子の欠点ゆえに、「必ずしも里親がいいわけではない、施設にもいい点がある」というような誤読*3があちこちに散見される。無理もないと思う。そのように読みたい人には、そのように読めてしまう材料は、確かに含まれている*4。しかし、このドラマは、そのような誤解の可能性から逃げなかった。里親を神格化し、里親制度をコマーシャル的に売り込む安っぽいドラマにしなかった。生れ落ちる人に<他者>が贈与されることの肯定的な意味を、人の不完全さを超えたところで描こうとした。その勇気を称えたい。


 脚本・龍居由佳里、プロデュース・栗原美和子。原作本は↓(僕は未読ですが)。しかし、松下由樹は実にスゴイねぇ。

生きててもいい…?―ひまわりの咲く家

生きててもいい…?―ひまわりの咲く家

*1:以下の記述は、次の記事を参照。>http://blog.livedoor.jp/maria_magdalena/archives/50386911.html

*2:そうとは限らないという意見はありえるだろうが、むしろ「無視できるほど小さい」ことを立証すべきだと言える程度には、この意見は脆弱だと僕は考える。

*3:と、僕は断じる。

*4:とはいえ、見たくないものもきちんと見るならば、むしろ認識の方を正しうるだけの材料は、ちゃんと描かれているのだから、作り手の責任ではまったくない。