モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

一昨日のエントリへの補注

 「ALS者からの贈り物 - モジモジ君の日記。みたいな。」について。しつこくバカになって考えてみる。

  • ALSである、ある人をAさんとする。
  • Aさんにとって、Aさんが今生きているAさんの生は、死よりも価値がある。
    • 現に、Aさんが今生きようとしているならば。
    • 現に、Aさんが今生きようとしていないならば、死よりも価値がない。Aさんにとって。
    • Aさんが、今生きようとするか、しないかは、Aさんが決める。
    • Aさんが今生きているAさんの生の価値は、Aさんが決める。
    • ならば、Aさん以外は決めてはいけない。
    • 決めないとは、それらのすべての選択肢を、Aさんが選べる状況にある、ということを意味する。(くどい)
  • Aさんの置かれている状況(=今ある身体的・精神的・社会的機能の束)に置かれる可能的な私と、今の私は異なる。
    • たとえば、「どうしても行きたいコンサート」があり、当日風邪を引いた私は、絶対に寝床から出て行きたくないと思うことがある。
    • 可能的な私を私’と呼び、私と区別する。
  • <α:Aさんの状況に置かれている私’>を想像するに際して、<β:Aさんの状況に置かれている私>、<γ:Aさんの状況に置かれているAさん>、どちらを参照すればよいだろうか。
    • どちらを参照すれば良いとも決められないわけだが、それは少なくとも決められない。
      • しかし、少なくとも、みんなが揃いも揃ってβを参照するのはどういうわけだ、と言っておく必要はあるかな。
    • γを参照する誰か(たとえば僕)にとっては、γをもたらしてくれているAさんは必要である。
    • βを参照する誰かにとっては、γをもたらしてくれているAさんは不要であるか。
      • βしか思い浮かばない人にとっては、不要である。
      • βを、γとの比較において選ぶ人にとっては、必要である。
    • βかγを選べるためには、すべての人にとってγは必要である。
    • γをもたらすAさんは必要である。
    • Aさんに価値がない、と本当に言える人は、γを参照する可能性自体を否定している。


 もちろん、その人にとって価値があるならば、生きていていいだろう、という立論はまったく正しいのである。他者にとって価値があろうとなかろうと、どうでもいいのである。だから、こういうことを考えることは、ある意味では不要である。しかし、これは素朴な疑問として、ほんとにないんだろうか、というのは気になるんである。「あんなになったら死んだ方がマシ」と言っているその人にとってさえ、やはり価値はあるんじゃないか、あってしまうんじゃないか、という気がする。だから考えてみたい。仮になかったとしても、それでも「その人にとって価値があるならば」という議論はまったく正しいから、それで十分で、別の言い方をすると、「ALSの人は、他者にとって価値があるか」という問いでどんな答えが出てくるとしても、それは彼らの命を脅かすことは論理的にはまったくありえないから*1、その意味では安心してこの問いを問えるという気持ちもある。

*1:横領しようとする人はいるだろうから、その点は注意するとして。