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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ALS者からの贈り物

考察

 ALSは過酷な病気だ。言うまでもない。しかし、その過酷なALSを生きる人々の、決して少なくはない一部の人たちが、ALSのままで生きていくための社会制度の整備を目指して運動している。彼らは生きる意志を持っているというだけでなく、「早く死ね」と言わんばかりの社会状況を変えてまでも生き延びようと、想像を絶する努力を重ねている。そして、多くの人たちを巻き込みつつ、人工呼吸器をつけて一日一日を刻みつけるように生きている。
 自分の身に置き換えて考えてみる。ALSほど過酷ではなくとも、事故や病気などで、自分の持っている身体的・精神的機能の幾つかを失ってしまう可能性は常にある。その可能性を小さいと見るか大きいと見るかは人によって分かれるだろうけども、しかし、どんなことであれ現実に直面してしまう選ばれた人にとって「期待値」などというものがまったく意味を持たないように、可能性の大きい小さいと関係なく、それはやはり起こるときには起こってしまう避けようのないものである。それは可能性が低いから気にする必要がないと心底納得しているというよりは、あまり考えないようにしているというのが、大抵の人の偽らざる心情ではないだろうか。
 しかし、ALSの(のすべてのではないが決して少なくはない一部を占める)人たちの生きることへの貪欲さを見ていると、(こう言っては気分を害されるかもしれないが)可能的ALS者である僕も、実に勇気付けられる。これだけ機能を失ったとしても、それでも生きていることが肯定できるような、生きていたいと思えるような、それがあるから、あれほど貪欲になれるのだろう。この貪欲さは、実に眩しい。繰りかえしになるけれども、聞く限り、それは過酷な生であるらしい。しかし、死んだほうがマシかと聞かれるならば、「死ぬよりはマシ」と思う人が結構な数いるという事実がある。現に生きているからだ。だとすれば、いかに過酷であるとて、それもまた享受されていると言えるような、肯定できるような生である。これはありえることなのだ。ALS者の人々の貪欲さこそが、そのことを証している*1
 たとえば、ALSを告知されるのと末期ガンを告知されるのとどっちがマシか、などという、引き合いに出されている両方に対して、あまりといえばあまりに失礼な言い草がある。予測されるオチも実に失礼なものだ。大抵は「末期ガンの方がマシだよね」と続く。ALSのように多くの機能を失う過酷な生は死んだほうがマシだから、というわけだ。この賢しげ、かつどうしようもなく鈍感な問いにあえてのってみる。現実にALS者の人々の一部が、実際に生きるための努力を払っているという事実を受け止めたとき、少なくとも「大半の機能が失われたまま生きるよりは死んだ方がマシ」などとはそう簡単には言えない。マシだと思う人がいることを否定しない。しかし、マシではないかもしれず、少なくとも生きたいと思えることもある。僕の感触としては、これは末期ガンの人たちに対しては申し訳ない言い方ながら、やっぱり生きていられるのはいいことだから、と、ほんの少し思ってしまうところもある。しかしいずれにせよ、ALSであれ末期ガンであれ、死のその瞬間までの、生きているすべての瞬間が肯定されていいのだと、そんな気が今はしている*2
 末期ガンも引き合いに出したから、もう少し一般化しておく。過酷な生というのは、どうもあるらしい。実際に体験していないから分からない。しかし、その過酷な生の中を生きている人たちは、すべてのではないにせよ、それでも生きようとしている人たちがいる。誰でもが必ずというわけではないにせよ、しかし、どんな過酷な生であっても、それを肯定して引き受けることができるかもしれない、そういう可能性が人間にはある。現に生きている人たちが、それを証明してくれている。このことに、実に勇気付けられる。
 もちろん、ありえる可能性の一つとして、たとえばALSになることが怖くなくなるというわけではないだろう。実際になったとすれば、(仮に万全の医療・介護体制があったとて)過酷な生であると、やはり言うべきものなんだろうなぁ、とは思う。しかし、少なくとも死の一歩手前でありえる。実際になってみたときには、そりゃあ辛いことも山ほどあるにせよ、死ぬよりは生きていたいと思える程度に生きていることの良さはある、そういう生でありえるのだ。もちろん実際なってみたら(泣くという機能が残っていれば)泣き叫びながら、「殺してくれ」とかなんとか言うのかもしれない。僕は根性なしだから、ありえる。しかし、少なくとも、実際になってみなければわからないというか、現状でも3割の人が生き続けているということからも、それほど分の悪い話でもないようなのだ。どうもALSの人でも「考え事はできる」「酒は飲める」ということのようだ。絶望の一歩手前の豊かさと言おうか。繰り返すが、その過酷さを、僕は恐れる。言うまでもない。しかし、この一歩はとてもデカイ。ALS者たちが必死に生にしがみついて社会的分配を要求しているという事実、この事実が僕らにもたらしてくれるものはこんなにも豊かだ。僕らの誰にとってもありえる可能的な生を、その局限で、このように力強く肯定している一群の人たちがいることは、(陳腐な言い草で申し訳ないけど)本当にスゴイことなのだ。


 となると心配なのは、生きる気マンマンなのに、社会の方がそれに追いついていなかったら、ということだ。現に今追いついていない。呼吸器がつけられるかどうか。つけたとして介護があるかどうか。外されないかどうか。人間の生は、死の最後の瞬間まで生を享受しうる、その可能性に満ちている。社会がそれを摘み取るのでは、それこそ「もったいない」じゃないか。
 というわけで、このイベント。>研究集会<死の法>――尊厳死法案の検証――
 これもいい加減、読まなくちゃ。orz

ALS 不動の身体と息する機械

ALS 不動の身体と息する機械

*1:当たり前だけど、生きることに貪欲ではない人を責める意図は毛頭ない。その人たちを、病に負けただの、もっと前向きになれだの、そういう言説には、どちらかと言えば反吐が出る。病と言おうと障害と言おうと、それはそれぞれの存在に張り付いたものであり、勝つの負けるのというのがそもそもおかしい。「もう充分、これでいいや」と思ったら、死ぬことはありえるだろう。ただ、いわゆる経済的事由が問題になる状況では、死は「選択」ではありえない。

*2:そして、その人の生が肯定されている中で、その人が「これでオシマイにする」という選択をするならば、それもまた肯定されてもいいのかもしれない。社会はある人の生を肯定しなければならない。条件を付してはならない。否定してはいけない。そして、本人だけが、自分の生を否定したり肯定したり条件付きで生きることや死ぬことを選んでいい。社会が何も決めないときにだけ、本人が一番たくさんの可能性から自分の選択を選ぶことができる。