モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

遂行的な発話を取り出す

 発話されている内容と同時に、発話行為が語る(発話が遂行的に(パフォーマティヴに)語る)内容を取り出してみせること。今回のネタはこれ。hazama-hazama氏とのやり取りでは、まだまだ言及しておくべき興味深い論点がたくさん残っている。とりあえず一つ一つ片付けていきたい。まずは、次のエントリについて。
ちょっとだけ帰ってきた過下郎日記(1月29日)

 ボランティアに参加しない人間は「おりこうさん」なんかではなく、これは嫌味で「話を聞かないバカ」「卑怯者」とでもmojimoji氏言いたいのは誰が読んでも明らかである。ロクに説明もせずに、相手を切り捨てるこの態度のどこにレトリックがあるのか?論理的整合性があるとすれば、それはmojimoji氏とその仲間たちが循環論的に正しさを補強するすることで、正しくない人たちとの相対的距離を拡げ、ますます正しさの絶対値をあげていくことくらいしかない。結局それはボランティアの拡大にはつながらない。「そうではない」と後でmojimoji氏は述べたが、そもそも人をバカにした態度を最初に取っていたのだから、それすら、メタ的には「正当化」の循環論として機能してしまうのだ。

 ボランティアに参加するかどうかは、結局のところ、支援を必要とする人たちと自分の関係を、その人自身がどう解釈するか、それ以外に考慮にいれるべきことはないし、考慮に入れられることもない。もちろん、支援メンバーの誰かが気に食わなければ、その現場には多少行きづらいかもしれない。しかし、hazama-hazama氏がどこのボランティアに行くとしても、僕に出会う可能性は極めて低いだろうし、実際に会ったとしても、僕だと気付きもしないだろう。また、その現場には行かないとしても、今日日支援を必要としている人はいくらでもいる。「どこにも」いかないことの理由にはならない。だから、行くか行かないかは、可能的支援者としての自分と要支援者の関係を、自分自身がどのように捉えているかの純粋な証明である*1

 ゆえに、たとえば僕の発言にムカついた、だから行かない、などと言える人間は、自己欺瞞に陥っているのである。そう断じる。彼は、自分自身とある人との関係を語ることを回避するために、僕を引き合いに出したのだ。そうやって可能的支援者としての自分を隠蔽することによって、何を隠蔽したいと考えているかを曝け出すことによって、自分自身の在り方を証明してしまっている。だから、僕の次なる一手は「その隠蔽を暴露すること」に決まっている。そのようにして、自分で自分を欺こうとするそのふるまい自体を無効化する。

 もちろん、僕への非難を(感情的なものであれ理性的なものであれ)やってもらって構わない。好きにすればいい。しかし、自己欺瞞は暴かれた。後は、人間であり続けようとする力が、自分の中のだらしなさに打ち克てるかどうか、ただそれだけだ*2。逆に言えば、すべての人間の中に、人間であり続けようとする力が備わっているはずだ、という信頼くらいは、あるんだよね。その信頼が正しいのかどうかは分からない。しかし、それ以外に賭けられる目が、今んとこ見当たらない。


 hazama-hazama氏が僕に反発してしまうこと、反発して「何かを」言ってしまうこと、それだけで多大なる成功なのだ。何かを言ってしまうことは、往々にして、それ以上のことを語ってしまう。だから、まずはしゃべらせることが大事であり、その次に大事なことは、その遂行的な意味を読み取って暴露することが大事なのだ。こうした観点から言えば、実は、相手を苛立たせないレトリックは、もっとも拙いレトリックである可能性さえある。もちろん、だからといって僕のレトリックがよいレトリックだとは、とりあえず言わない。僕とて、場面場面で使い分ける。その使い分けが巧くいっているのかどうか分からないし、そもそも他者は決定できないからこそ他者なのだから、巧くいっているとは一体何を意味しているのかさえあやふやである*3。しかし、分からないなりに工夫をするだろう。それが単に「工夫しているつもり」に過ぎないとしても。少なくとも、レトリックの巧拙なんて誰も確定的なことなんて言えない、という前提くらいは確認しておく意味はある。*4
 それと、これは公平を期すために、そして念のために言うならば、hazama-hazama氏の言説は、僕をこうして引っ張り出すことに成功し、(少なくとも僕の見るところでは)実りあるやり取りになっていると思う。コミュニケーションが成功するとは、こういうことを言うのだと思っている。というより、最近そのように思う。

*1:実際はちょっと違う。僕らはすべての現場には物理的に行けない。だから、行くべきだと考えていても行かないことはある。これについてはまた別エントリで。

*2:実は、「もう宗教。みたいな。これを読んでボランティアに行ってみようという気になる人はまずいない。」というコメントを受けて書こうとしていたのが、今回の内容。

*3:とりあえず、二つくらい考える。一つは、仮に相手をうまくこちらの言い分に同意させたとしても、こちらの言い分が「そもそも間違っている」のであれば、それは失敗なのだと僕は考える。相手とのやり取りが、こちらが意見を変える可能性まで含めて、真実に漸近していくようなやり取りになっているかどうか、こちらの方が問題だ。いま一つは、そもそも対話を開始させられるかどうか、という点。この点から言えば、普段から僕自身主張しているように、人を苛立たせるレトリックは必ずしも拙いとは決め付けられず、それによって初めて人を引っ張り出しうることがあることを認める。ただ、濫用は気をつけねばならないのは確かだし、何をもって「濫用」と言えるのかも曖昧なのも確か。

*4:たとえば、僕は体罰否定派だが、体罰でさえ、伝えるべき何かを伝えてしまうことがありえる。もちろん、体罰の場合は、それが遂行的に伝えてしまう「余分な」メッセージが問題なわけだが。