モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

風刺画問題・他者に向き合うということ

【追記02/20:本エントリの主張について、t_keiさんがもっと丁寧に説明してくれてましたね。オススメ。
→ http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20060212 】


この問題についてはいろいろ迷いがあったのだけども、つい先ほどhokusyuさんからいただいたTBに触発されて考えた。*1
2006-02-13 - 過ぎ去ろうとしない過去


単純化のために、あえて「ヨーロッパ側」、「イスラム側」とひとくくりにする。今回、イスラム側からの批判があった段階で、ヨーロッパ側は「イスラム側の何が一体気に食わないのか」を、今度は風刺などではなく(ほのめかしではなく)、堂々と論陣を張って主張すればよかったのだ。偏見も勘違いも全部含めて、ヨーロッパ側は自分たちのイスラム観を堂々とイスラム側にぶつければよかったのだ。当然、イスラム側からは反論が来るだろう。しかし、そこにコミュニケーションは確かに開始されるのであって、ヨーロッパとイスラムは互いに互いを他者として認め合う関係が開始できただろう。
ヨーロッパ側がイスラム側を真剣に批判するならば、そこに間違いなく指摘されるべき問題があるはずである。偏見もあるだろうし、的を射ているものもあるだろう。しかし、それを真剣に検討するならば、その原因がヨーロッパ社会にあることが、たとえば、腐敗した政権を誰が支えていたのか、という観点から見るならばヨーロッパに責任があることが、明らかになるだろう。そうしたやり取りを通じて、ヨーロッパ、イスラムという平板なカテゴリーではなく、その中に何がどうおかしいのかが、両側の市民社会における共通知になっていくだろう。大事なことは、双方が真実だと思っている認識の内容を、真面目に交換することである。そのような言葉だけが人と人をつなぐことができる言葉たりえる。


今回ヨーロッパ側が風刺を内容においてではなく形式において擁護しはじめたことによって、極めて逆説的な帰結であるが、ヨーロッパは言論の自由を否定しているのである。確かに、発せられる言葉の字面は「言論の自由を守れ」と言っている。しかし、考えてみれば、言論の自由が要請されるのは、異なる立場がそれぞれの立場の優位性を競い合うためである。ヨーロッパ側は、風刺が示そうとするその内容において擁護することを放棄し、それを形式的にのみ擁護したことで、言論の自由が守ろうとした場における責務を放棄している。ヨーロッパ側は、そのふるまいによって、「言論の自由は不要だ」と述べているに等しい。

さらにヨーロッパ側が風刺を内容においてではなく形式において擁護したことが意味するもう一つのことは、ヨーロッパによるイスラムに対する差別意識である。ここでの「差別」には具体的な意味が込められている。すなわち、ヨーロッパ側は、イスラム側は(風刺によって示された否定的な評価も含めて)*2ヨーロッパ側の評価をありがたく受け取るだけの存在と位置づけたのである。言いたいことをいうが、しかしオマエの話はきかない。大事なチャンスをフイにしたとも思う。しかしそれ以上に、この態度は人を愚弄するものである。


同じことは、このような場面で「形式」を持ち出すような言説すべてに当てはまる*3。「言論の自由を守れ」という言葉が言論の自由を守るために有意味でありえるのは、物理的に言論そのものに蓋をしてしまうことのできる権力に対して発せられる場合に限る。それ以外の場合には(イスラム諸国のどの国にせよ、ヨーロッパのどの国に対してであれ主権を行使できないのだから、今回は「それ以外の場合」に当てはまる)、「言論の自由を守れ」という念仏は無意味である。このような場合には、言論の自由を守りたいのであれば、実際に言論の内容に即して批判をおこなえば、言論の自由を使用すればいいのである。

*1:今回のエントリとは関係ありませんが、以前のエントリと関連していろいろ積み残しほったらかしにしております件、まぁ、気長にお待ちください。

*2:galleonさんとのやりとりから、この( )内はむしろ外した方が良いと判断したので削除。

*3:もちろん、日中韓関係においても。