モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

 根源的な問いを回避することについて(1)

 稲葉振一郎さんのコメント、「そういうバカでてきていない小人もだましてなだめすかしておだてて使うことが必要です」に関連して。


 まずは、レヴィナスの『全体性と無限 (上) (岩波文庫)』(熊野純彦訳)より。

・・・私たちが語りにおいて接近することになるのは多くの場合、対話者、つまり私たちの師ではない。むしろたんなる対象であるような相手や子ども、あるいはプラトンがそう語っているように、群衆のひとりとしての人間である*。子どもに教育するような、あるいは洗脳する場合のような語りはレトリックなのであって、それは隣人を策略にかける者の立場にたつものである。ソフィストの技術が、それとの対立関係において真理をめぐる真の語り、あるいは哲学的な語りが定義される主題となるのは、そのゆえにである。どのような語りもレトリックをまぬがれないけれども、哲学的な語りはそれを乗り越えようとする。レトリックが語りに抵抗しようとするからである(あるいは、教育に、煽動に、洗脳にみちびこうとするからだ)。レトリックは、正面からではなく斜めから<他者>に近づく。なるほど、<他者>をもののようにあつかうというわけではない。レトリックであっても語りでありつづけるし、策略のかぎりをつくして<他者>に向かい、<他者>を承諾へとみちびこうとするからである。けれどもレトリックの(宣伝の、追従の、社交辞令等々の)とくべつな本性は、承諾の自由を買収しようとするところにある。レトリックは、だからこそすぐれて暴力であり、言い換えるなら不正にほかならない。惰性的なものにふるわれる暴力ではなく──そうであれば暴力ではないだろう──、自由に対してふるわれる暴力なのだ。自由は、自由にほかならないものとしては買収不可能なもののはずなのである。自由に対して、レトリックはあるカテゴリーを押し当てることができる。自由をある本性とみなしているように見えるレトリックは、ことば自体が矛盾におちいるような問いを立てる。つまりレトリックは「この自由の本性とはなにか」と問うからである。


 レトリックがともなう洗脳を、煽動を、教育を放棄することは、他者に正面から、真の語りをかいして近づこうとすることである。他者の存在はその場合、いかなる度合いでも対象ではなく、その存在はいっさいの支配の外部にある。対象的なありかたのすべてからこのように離脱することが、他者の存在に対して積極的に意味しているのは、他者が顔において現前していることである。つまり他者の表出であって、またそのことばである。他なるものとしての<他なるもの>とは<他者>である。<他者>を「存在させる」ためには、語りの関係が必要とされる。<他者>が主題として提示されるたんなる「開示性」は、<他者>に充分な敬意をはらってはいない。これに対して、このように語りにおいて正面から<他者>に接近することを、正義と呼ぶことにしよう。真理が出来するのは、存在がその固有の光によって煌くような絶対的経験にあってのことであるとするならば、真理が生起する場も、真の語り、つまりは正義のほかはない。(pp.126-128、太字強調はmojimojiによる。)

 では、「語り」から「レトリック」を取り除いた残りは何なのか。僕の考えるところでは、「真実」、「真理」、「言葉の持つ力について - モジモジ君の日記。みたいな。」でも述べたことを敷衍するなら<事実と論理に関して整合的であること>である。真理を介さずに、人に迫ろうとするやり方の意味するところは、こういうことである。それは暴力であり、あるいは同じことだが、支配である。*1


 もちろん、これだけではまだ批判にはなっていない。稲葉氏は、こんなことは既に折込済みなのだから。だから、批判とするためにはもう一段、議論を積まねばならない。

 というところで、本日はここまで。(ほとんど引用のみでアレですが。)

*1:もちろん、レヴィナスも述べているように、語りは常に、いくらかは、レトリックである。ここで戒められているのは、レトリックの使用である以上に、真実の不使用であるように、僕は思う。