モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

言葉の持つ力について

 hazama-hazama氏から元気なお便りをいただき、まことに喜ばしい。時系列でのやり取りは、次のような感じ。

 実は、このコメントをネタにエントリを書こうと思いつつ延び延びになっていたのだが、それより先に、ここ2、3日で次のようなエントリをいただいた。

 彼の訪れは、いつでも興味深い素材そのものである。言葉の持つ力が、主としてレトリックに起因すると考えるドグマは広く行き渡っている。これに対して、僕自身は、経験的事実との整合性および論理性こそが、その主たる源泉であると主張する。(今回は26日のエントリにのみ言及し、27日のエントリについては、後日に回す。)

(0)問題の整理

 「ちなみに私は、このブログは論理の訓練の場としているので、とにかく正しいことさえ言えればよいと思っている。実生活では、論理を含めたレトリックが重要になってくると思っている。」だから、26日のエントリでのhazama-hazama氏の批判はまったく的外れである。・・・・・と、数行で終わらせることも可能なわけだが、あまりおもしろくならないので、真面目に考える。*1


 hazama-hazama氏は「切断処理したがるのは誰か - モジモジ君の日記。みたいな。」での論理を基本的には認めた上で、「件のエントリを読んだ時には「逃げてるし、底が浅いのでボランティアなんか一生やらねーよ。バーカ」と思った」ことを告白し、「ボランティアのための言語表現として重要なファクターは論理的整合性よりも、むしろレトリックであろう」との見解を支持しつつ、「巧みにレトリックを展開すれば、私はボランティアの重要性にあの時点で気付いたかもしれなかったのだ」と論難している。

 この議論は、完璧に外していると僕は考える。考えるが、これを外しているとは考えない人は、実に多いだろうことも知っている。愚民論争でid:mushimoriさん他が異議を述べていたのも同じ論点。23日「留保のない生を肯定するか、さもなければ」コメント欄id:shinichiroinaba氏が口にしていた「賢いやり方」も、それがレトリックのことかどうかは別にして、少なくとも主張の整合性などとは別の何かを示唆するものだ。というわけで、この論点について僕の考え方を整理してみる。

 僕は、レトリック(など整合性以外の何か)が重要ではない、と考えているわけではない。この点は誤解のないように述べておく。僕の立場は、(1)述べていることの整合性が最重要である、(2)最善のレトリックは状況によって変わる、(3)整合性もレトリックも可謬的である、というものである。それぞれを順に説明しよう。

(1)整合性の重要性

 まず(1)について。整合性、そしてそれをできるだけ明快に示すこと、これは最も重視されるべきことである。ある考えを受け入れてよいかどうかを考えるにあたって、これ以外に用いることのできる基準は何もないからである。論理的な意味での整合性はもちろん、私たちが観察によって手に入れる経験的命題*2との整合性も大事である。

 なぜ整合性が大事なのか。それに反対するためには何を言えばいいのかをハッキリさせるためである。mojimojiが何事かを主張する。それに反対するためには、その内部矛盾を指摘するか、前提が違うことを指摘するか、どちらかをすればよい。それは即ち、私の見解の妥当性をテストする機会を万人に開くことである。それは私自身を他者に対して供するということである。相手を私の支配下に置かないような仕方で他者にはたらきかけるために使われる方法は、このような性質=整合性を持っていなければならない。*3

(2)最善のレトリックの不確定性

 次に(2)を考える。そのように、整合的なものとして組み立てられた主張を、どのようにして相手に伝えるのがよいのか。「賢い」やり方なのか。これは、状況によって変わるとしかいいようがない。たとえば、ある学生の間違いを指摘するとして、大教室の他の学生の面前で指摘する際のレトリックと、一対一で向かい合い他の誰もいない状況で指摘する際のレトリックは異なる。また、同じ状況であっても、叱られることについて非常にタフである(と思われる)学生に対して使うレトリックと精神的に不安定さや弱さを持っている学生に対して使うレトリックは違う。継続的な関係の中で顔や名前を知っている相手に使うレトリックと、匿名の行きずりの相手に使うレトリックは違う。また、その場で有効に見えるレトリックは一つに絞られるわけではなく、いくつかの複雑な事情から、その場面で用いられそうなレトリックには複数の候補があり、それらはそれぞれに違ったメリットとデメリットがあるように見える。

 様々な選択肢があることを考えるときに、極端すぎる(と僕には思える)二つの立場をあらかじめ棄却しておくのが良いと思う。一つは、シバキ主義的なものであり、何でもかんでも叩きさえすれば不快を避ける傾向ゆえに良い方向に向かうというドグマである。言うまでもなく、行動を改めるよりは、そのような私自身を避けるという方向に向かいかねないからである。*4いま一つは、相手に不快感をもたらすレトリックよりももたらさないレトリックの方が常に優れているというドグマである。不快感(あるいは心理的抵抗感)をまったくもたらさないレトリックは、実は、端的に無視されることによって免疫化されてしまうことがしばしばである。たとえば、うるさい教室全体に向かって「静かにしろ」と言うことは、しばしば十分な効果をもたらさない。そのとき、実際に私語をしている個々の具体的な人物を名指しつつ注意する方が絶大な効果をもたらす。*5

 だから、レトリックは注意を払われるべきことであるとしても、補助的な役割しかもっていない。少なくとも自分自身のこれまでの成長の過程を考えてみるとしても、真剣な共感であれ、真剣な叱責であれ、実に様々なレトリックが僕自身の形成に影響を及ぼしてきたことはすぐに分かる。それらは様々であるが、しかし明白な共通点は、私自身の世界観の中に整合的に位置づけることのできる重要な公理を提案するものであるということである。こうした経験から、僕は「レトリックが整合性以上に重要である」などと信じる理由はないと考えている。

 さらに、「発話が人に影響を及ぼしていく」という現象を見るとき、それはどのようなタイム・スケールで起こることなのかについても考えねばならない。どうも、発話し、それが聞き取られ、それがすぐさま人を変えていくかのような夢みたいな話が想像されているように思えてならない。hazama-hazama氏が僕のエントリの、少なくとも内容としての整合性を認めるまでに経過した時間など、実に短いと思えるようなものである。私は、私の誤謬を指摘されたときに、それを理解して受け入れるまでに、数年、場合によっては十年以上を要したことがたくさんある。たくさんの共感とたくさんの叱責、その中には妥当だと思えるものも的外れだと思えるものもあったし、当時と今とで評価が変わったものもあれば変わらないものもある。二転三転したものもある。それらは僕が僕自身を作り上げるために使うことのできる資源である。僕の中に堆積した資源として有用なものはと言えば、やはり、私自身が作り上げ改良し続けている世界観の中に整合的に位置づけられるものである。

(3)可謬性

 最後に(3)。僕は、僕の見解や主張が無謬であるなどとは考えていない。ただ、誤謬があるなら具体的に指摘していただければいい、と思っているだけである。それは、僕の述べたことの整合性が取れていないことを具体的に指摘することであるし、事実認識の間違いを具体的に指摘することだろう。それを受け入れるか、さもなければ僕はそこに整合性が維持できることを説明するし、事実認識の妥当性を述べるだろう。主張の妥当性は、議論の中でのテストに耐え続けることによって試される。また、耐えられなかったときに適切な変更を加えることによって改善される。だから、誤謬があると思うなら、具体的に指摘してくれればよい。

 可謬的であるのは、整合性に関してだけではない。どの場面でどのようなレトリックを使うのが良いのか。これについても、僕はまったく僕自身の判断を信用していない。ただ、何かは言わねばならないから、何らかのレトリックを採用して、まずはやってみるしかない。その帰結を見ながら、相手との関係の変化をも考えながら、繰りかえし微調整を試みるしかない。しかも、変化がもたらされているのかどうかはなかなか見えにくい上に、タイムラグまであるから、早々安易に「このようなレトリックこそが正しいやり方である」などと言えない。言えるわけがないとも思う。結局のところ、テストがしやすいがゆえに信頼できるのは、ともかく整合性をきちんと保つこと*6に注意を払う方がよほど効果があるようには思う。hazama-hazama氏自身が、見事な実例になっているように。

*1:関連するが、左翼的レトリックを揶揄することで差別化をはかる一部左翼の使う、まさにそのレトリックが、およそ相手を説得するために工夫されたものとは信じられないレトリックになっていることはよくある。また、左翼による左翼批判が「自己」批判と称されることがしばしばあるが、それがいかなる意味においても「自己」批判であるようには僕には見えない。これもまた興味深い点である。

*2:経験的命題の不可謬性を主張しないし、経験的命題による知識の基礎付けをも主張しない。経験的命題も、常に仮説的な性格を持つものである。

*3:だから、稲葉氏のコメントの最後、「そういうバカでてきていない小人もだましてなだめすかしておだてて使う」というやり方は、趣味の問題として嫌いだという以上に、間違っているとも思う。仮に「だましてなだめすかしておだてて使う」やり方を取る人がいることは許容するとしても、少なくとも、このようなやり方に一本化されるべきではないとは思う。

*4:しかし、注意を促しておきたいが、仮にただただ厳しいだけの叱責にしても、その叱責が整合的な何らかの主張をきちんと伴うものであるならば、猛烈な反発を受けつつも、それが相手の中に堆積し、時間をかけて孵化することは十二分にありえる。とにもかくにも整合的な主張を相手にぶつけておくことは、何も言わずに通り過ぎることなどに較べて遥かにマシであるように僕は思う。ここで批判しているのは、もう少し工夫があってよい、という程度のことでしかない。

*5:ただし、この事実をもって、このような接し方が正しいとの最終結論が下せると考えているわけではない。(3)で可謬主義について言及するが、僕はこの方法の有効性をある程度感じつつも、疑いながら見ている。そのありえる弊害がどのようなものかについても注意を払うべきことを否定しない。

*6:それは、整合性についての誤謬の指摘を素直に受け入れることをも含む。間違う可能性がないことを意味しない。