モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

いつかどこかで見たような手口

REV氏の「"先に経済学ありきではない"」に僕からのTBへのコメントが追加された。このようなことを言う人は、いつも同じようなロジックを使うのだなぁ、といろいろな意味で感慨深い。

手口その1・緊急事態を詐称する

さて、まずは次の部分。

引用の中で、救急隊員のたとえが出てきたが、自分にはそれより、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8

トリアージの概念の方がしっくりくる。大災害の際にはこういう作業を行うらしいのだが、実際的ではないかと思う。すくなくとも私は、救急隊を前に、デカルトの哲学を説く勇気は無い。大災害に直面した為政者の前で哲学を説く、小泉義之氏の姿は見てみたい気はするが。

小泉氏の批判の一つは、「今がまさに、そのような取捨選択が不可避であるような場面であること、それ自体が議論されるべきなのに、なぜいつの間に前提されているのだ」ということだ。*1だから、今からでも遅くはない。REV氏よ、今、まさに、重度障害者の福祉予算を削減しなければ、まさにREV氏自身の、あるいはREV氏自身の知る誰かの、その生がすぐさま危機に瀕するのだ、ということを、きちんと論じてみればいい。今こそがまさに「トリアージ」が必要な場面であることを、きちんと論じてみればいい。この点をきちんと論じている人は、僕の経験上、一人もいない。事実、そんな危機ではないのだから当たり前だと思うけども。しかし、僕の思い違いかもしれない。だから、REV氏よ、それをちゃんと論じて見せてくれ。

手口その2・規範に関わる論点をこっそり外す

奪われているものが暴力を行使しないのは、そのために先進国が武装しているからじゃないのかな。

ここで大事なことは、REV氏が述べていることではなく、むしろ、述べていないことである。REV氏は、奪われている者が暴力を行使すべきでないことを、規範的な意味においてそうであると主張しないのである。もちろん、否定もしないわけだが。しかし、REV氏のような人々は、皆一様に、この論点を回避しつつ、規範性と関わりのない論点についての話に反らしたがる。しかし、僕は、その論点ずらしには応じない。REV氏は、規範的な意味において暴力を行使すべきでないことを主張することを、回避したのだと、理解する。そして、端的に言って、REV氏のここに見られるような態度こそが、私達の社会に暴力を呼び込むのである。このような人々の巻き添えになるのはごめんこうむりたいのではあるが、いやいや、なんともはや。せいぜい僕にできることは、本当に暴力を好み、呼び込んでいるのは、このREV氏のような人物であることを、暴き立てることくらいだ。・・・いや、しかし、これも僕の思い違いかもしれない。だから、REV氏よ、今からでも遅くはないから、「奪われているものが暴力を行使しない」ことの規範的な理由を、述べてみせてはくれないか。さもなければ、「それは規範的な理由にはよらない」ことを明言すればいいと思うのだが、それもまたできないのだろうか。

不誠実さについて

財政云々をまず第一の論点にすることは、「何はともあれ先立つもの」に目を向ける現実主義を装うことが多いが、実のところ、中身は単なる不誠実である。本当に財源が足りないのであれば、「障害者福祉は切り捨てる。そうしなければ我々は生き残れないからだ」と堂々と主張すればいい。そして、その上で、「障害者がどんな暴力を振るおうとも、我々は全力で迎え撃つ」とだけ言えばいいのだ。この障害者のところに、何を代入してもよい。とにかく、その生を保障することなく放逐するのであれば、互いの生存をかけた根源的な対立状況にあることを、率直に認めればいい。

しかし、こう書いてきて思うのだが、実に馬鹿馬鹿しい。財政をまず云々する人々は、端的に、それが含意する規範のこちら側からの一方的棄却、そしてそれによって開かれる闘争状態、これを真面目に考えてなどいないのである。真面目に考えてなどおらず、単に目を反らしている。いちいち指摘するのもバカバカしいほど、幼稚な不誠実さだけが、ここにはある。現実とは、かくも陳腐なものなのだ。

*1:だから、「こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者」という文言が出てくるのだ。