モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

留保のない生を肯定するか、さもなければ

 新年最初のエントリです。
 x0000000000さんが「http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060122/p4」というエントリを立てている。この見解にはまったく同感であるが、このように言い返されてしまうのも、今のご時世ではある。というわけで、まったく同じ事を、別の言い方で述べてみる。


 ある人の生存を無条件に認めないならば、誰の生存も無条件に認められたものではありえない。Aがなければ生きられない人α氏がいる。Aを行うかどうかが「財政的に可能かどうか」という条件が付される場合、α氏の生は条件を付されたのである。生きていてよいかどうか、誰かが勝手に決めてもよい存在とされたのである。

 このことが意味することは、次のどちらかである。(1)このような社会に住む誰がα氏のように扱われても構わないことを認めている。あるいは、(2)このような社会が標榜する「正義」は、普遍化可能性を満たしていない。(2)はあまりに馬鹿げている。とすれば(1)である。このような社会においては、誰であれ、α氏の位置に代入される可能性がある。生きているという最低限のことさえ、当然の権利ではないのだから、誰が誰から何を奪うとしても、それを禁止するはずの正義はそこにはない。それは、生きるための(あるいはそれとは関係のない)暴力を社会に呼び込むのと同じである。


 先のAのようなものについて財政支出を行うかどうかの「国民のコンセンサス」とやらは、同時に、人の生を無条件に認められるべきものとするかどうかについてのコンセンサスでもある。財政支出を行わないというコンセンサスは、それはあらゆる暴力に対して「それは不正だ」と述べる根拠を一切合切放棄して構わないというコンセンサスでもある。そのことを本当に分かっているのか。人の生に条件を付し、条件が満たされていないからと死に追いやっておきながら、自分達の生だけは、ちゃんと暴力から守られているべきだなどと、一体どの口で言えるのかを、真剣に考えてみなければならない。

 私たちが暴力の跋扈する世界を心底から拒否したいならば、コンセンサスは、まず、「すべての人の生を無条件に認める」という公理についてなされるべきである。そして、「すべての人の生を無条件に認める」ならば、財源をどのように確保するかは、後に考えるべき、というより、後で考えるしかない話である。


 もちろん、REV氏が言うような「残念なことに、権利を担保するには予算が必要だ」というのは、一応、大事な話だろう。しかし、そんな彼には1年前にも引用した小泉義之の次の言葉を送ろう。

救助隊員のあなたが、沈没事故の連絡を受けて現場に急行したとしよう。ところが、救助隊員のあなたが乗っている船には一人分の余裕しかないのに、現場では二人の人間が溺れていたとしよう。・・・

 いつも不思議なのは、人間の生死は最も重大な問題であるはずなのに、最も算術的に処理しやすい問題になってしまうということである。二人を救助する方が一人を救助するよりも正しいということには、2が1より大きいということ以外に根拠はない。二人を救助できない場合には一人を選択して救助するのが正しいということには、マイナス2よりマイナス1が大きいということ、マイナス1よりプラス1が大きいということ以外に根拠はない。救命船問題とは、道徳の問題ではなく、算術の問題にすぎないのだ。そして、二人を救命できない状況を引き起こした人間の責任を問わないとすれば、また、こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者の責任を問わないとすれば、二人の中から一人を選択する状況とは、道徳が果てる自然状態、すなわち道徳的には<何でもあり>の状況であると言うべきである。ウィリアムズのようにそこから何らかの道徳的帰結を引き出すこと自体がどうかしているのだ。
私はむしろこう言いたい。救助隊員は躊躇なく二人を乗せるべきである。<三人とも助かるか、それとも三人とも助からない>のが最善であると思うからだ。現実の世俗的世界は、一度もそのような運命共同体を実現したことはない。核戦争ですら、政府指導者を含めた全員を一度に死なせることはできないのである。<全員が生き残るか、それとも全員が死ぬ>世界だけが、算術的道徳によって一部の人間だけを優先するような状況を根こそぎにしてくれる。そして、生死に関してさえ、遠くより近くを優先して構わないとする共同体論者はどこか過っているとしか言いようがない。共同体論者とは、遠くで何人死のうが痛痒を感じずに、先進資本主義国の良い生活を正当化する連中なのである。
小泉義之デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)』pp.23-24、強調はmojimojiによる)

 「財源がない」を言い訳にしている時点で、私たちは生き残るための「万人の万人に対する闘争」の扉を開いたのだと言うべきなのだ。<全員が生き残るか、それとも全員が死ぬ>世界だけが倫理的でありえる。財源を口にして<生き残る我々>と<見捨てられる彼ら>を分けようとするのであれば、それ相応の覚悟をしておくべきだと述べておく。

 その上で述べよう。奪われている者たちの多くが、今、現に暴力を行使していないのは、私たちにとっては幸運なことである。それは決して、私たちに暴力を振るわれない権利が、彼らと私たちの間に現にあるからではない。私たちの生を尊重すべきとする正義が、現に彼らと私たちの間に存在しているからではない。それは、主に私たちの側から破棄されている。彼らは、生きるための暴力を禁ずる何もかもが破棄されているこの世界で、ただ単にその暴力を行使しないだけであり、そのことによって、正義が生成する可能性を辛うじて保ってくれているのである。私たちは、彼らが、少なくとも私たちほどには野蛮ではなかったことを、幸運だと思うべきである。


 しかし、財源的に無理だ、って話自体、実に嘘くさいんだよね。真面目に考えた結果「できない」という結論が出てきているというよりも、そもそも真面目に考えていないとしか言いようがない。重度障害者の生はあっさり諦める割には、施設介護者の職場維持にはやたら寛大だったりする。実際には施設を潰して、彼らをヘルパーとして雇えばいいだけの話なんだが、そういうことは真面目に考えられることなく、ただただ「財源がない」と嘯いているようにしか見えないんだよな。
参考:障害者自立支援法について反論する - モジモジ君の日記。みたいな。障害者自立支援法について反論する・その2 - モジモジ君の日記。みたいな。