モジモジ君のブログ。みたいな。

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切断処理したがるのは誰か

何もしないことの言い訳 - モジモジ君の日記。みたいな。」に対して、「ボランティアしないのは悪い=帰属処理  ボランティアやってない人非人とは違う=切断操作」というコメントid:hazama-hazama氏からいただいた。よい素材だと思うので、このhazama氏の反転が反転として成り立たないことを考えてみる。


社会制度は常に不完全であり、そこに取り残された人がいる。ゆえに、社会制度が頼れないところでも、(1)当面の生活を支えるための活動が必要であり、(2)その状況を変更して社会制度を作っていく活動が必要である。これら二つは、原理的に無報酬・持ち出しで負担する人がいなければ不可能な事柄である。ボランティアの本質は、今そこにないものを補充し作っていく活動であるという、活動内容における先駆性である。ついでに言えば、しばしば言われるようなボランティア=生きがい論のようなものはまったく外している。参加する人間がたのしんでいるかどうかとか、それが生きがいになるかどうかとか、そういうことは比較的瑣末な話で、とりあえず考えなくてもいいことである。それを「たのしくやる」ことは常に努めつつ行われていることが多いが、それ自体が「たのしいものである」ということは普通はない。社会制度尽きるところの最前線で矛盾を目の当たりにし続けること自体がたのしいという人は、やはりどっかおかしい。

このような観点から見た場合、ボランティア活動のこのような意味合いを理解している人の場合、「切断処理」をすることは断じてありえない。常に、いかに人を巻き込むかに腐心しているのがまともなボランティアの現場である。*1むしろ、(自分にも帰属させているところの)社会に対する責任を相手にも帰属させ、切断どころか結合させようというのが常々考えられることであるからだ。*2その意味で、hazama-hazama氏のこの反転してみせた構図、「ボランティアしないのは悪い=帰属処理  ボランティアやってない人非人とは違う=切断操作」、は、まったく外している。


切断操作」したがるのは誰なのか。基本的には、逃げたい連中なのだ。いや、違うか。逃げたいという気持ちの問題であるならば、実際にボランティアを担っている人の間にも「やらないですむものならやりたくないよ」(=逃げれるものなら逃げるよ)という声はしばしばある。適切に言い換えるならば、本当に逃げてしまう奴だけが、逃げたことの言い訳として「切断操作」を行う。
では、なぜこのような「切断操作」は批判されるのか。実は、社会に対する責任を負っていないということを堂々と主張し、それを正当化する論理をきちんと述べた上で、ボランティア的仕事にコミットしないことをきちんと説明した上で切断処理するのであれば、そしてそれに対する有効な反論を誰もできないのであれば、担わないで逃げることは正当化できている。堂々と切断操作してくれればいい。しかし、こういうことをきちんと言う人は、少なくとも経験上はただの一人もいない。そしてむしろ、そうしたことを「言わないために」帰属処理(「あなたは好きでやっている」と言い放つこと)が行われる。
つまり、こういうことだ。自らと社会的責任の間において、そこにある論理において切断処理をするならば(そしてそれが可能ならば)、それは認める。というより、認めざるをえないだろう。しかし、連中はそれをやる代わりに、自らとボランティアを担う人々の間の別の差異に注目して(あるいは差異を捏造して*3)帰属処理を行った上で、その捏造された関係の上で切断操作をしたことをもって切断できたかのように装うのだ。だから批判しているのである。*4


反転してみるのは一つの有効な思考実験にはなるが、反転しただけで満足する人は実に多い。反転してみたところでうまくおさまらないことこそが、きちんと考えねばならない論点であるのに。そこをきちんとチェックしない思考は、単なる遊戯にしかならない。

*1:閉鎖的になっているボランティア=生きがい論者たちのサークルもあるとは思うが、それは「まともでない」と僕は見ている。しかし、なんだかんだ言っても担っている以上は、斜に構えて批判している人たちよりはマシだと思うし、その思想は批判しつつも行為に対しては尊敬の念を禁じえないことも多い。

*2:意地悪を言えば、こういうことが分からないhazama-hazama氏は、こういう責任を自らが背負っているということがほぼないか、あるいは個々人が好きなだけ背負えばよく、背負わない人を非難できないと考えているか、そのどちらかなのだろう。底の浅いボランティア論が背景に透けて見える。

*3:好きでやってるわけではないから、「好きでやってる」は捏造だ。

*4:こういう帰属処理と切断操作にはいくらでもバリエーションがある。例えば、何か新しい仕事の割り当てを決めなければならない場面になると、「若い人に頑張ってもらいましょう」などと言い出す人が必ずいる。必ず「経験豊かな人が頑張ってくださるのが一番いいと思います」と口を挟んで泥仕合にもちこむことにしている。今のところ、戦果はそこそこ良い。