モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

政治ビラと商業ビラ

TBをいただいた。少し考えてみる。
反戦ビラ訴訟 - シャ ノワール カフェ別館


黒猫房主さんの見解というより、孫引きになるのだが、黒猫房主さんは『おおやにき』の次の記述を引いて、これに「賛同する」とおっしゃってるので、そこにまず異論をぶつけてみる。

しかしこの事件を「政治的表現活動の自由」の問題として、商業活動の自由より尊重されるべきだから無罪にすべきだという朝日(および一部識者)の論調は大層気にいらない。「ピザ屋のビラならともかく」みたいなこと言ってるやつもいたな。じゃあ今回の裁判を支援した皆様は、次にピザ屋が捕まったら「それは商業活動であって神聖なる表現ではないから有罪にされて構わないんだぞ」とのたまうのだろうか。どちらが人々の役に立っているか、生活を豊かにしているかと言えば当然にピザ屋やデリヘルの方だと思うわけだが。(『おおやにき』の記述として引用されているものを孫引き)

僕の見解としては、断じて、政治ビラは商業ビラより優越的に保護されるべきである。商取引というものは基本的にWIN−WIN関係を作るからこその関係であり、それを一方が拒む場合には既に成り立たないのも当然である。だから、これはあらかじめ主体的に拒んでおくとしても、そもそも情報へのアクセスを拒否するとしても、別に問題はない。しかし、政治的主張は、前にも書いたが、「おまえが聞きたくなくてもこっちには話があるんだよ」というものであり、本質的に、聞きたくない人の耳にいれることが可能でなければ無意味なものである。民主社会に生きており、そこにおいて政治的な権限を付与された存在である以上、聞きたくない政治的主張に物理的に出会わないようにしてよい権利などない。音楽を聞いている相手からヘッドフォンを勝手にはずしてキャッチセールスを行うのは不当だが、同様にヘッドフォンをはずして「足を踏むな」と言うのは正当だ。商業広告は侵襲的であっては無意味だが、逆に、政治的主張は侵襲的でなければ無意味だ。過度に暴力的であっていいわけではないが、「聞きたくないことを聞く」という程度の侵襲性をもって暴力的だと言ってしまうならば、そんなところで民主主義は不可能だ。ゆえに、仮に商業ビラのポスティングが摘発されるとしても、政治ビラのポスティングはより保護されてよいと考える。「どちらが人々の役に立っているか、生活を豊かにしているかと言えば当然にピザ屋やデリヘルの方だ」などと言うに至っては、生活保守主義的浅ましさを感じる。そもそも政治的主張というのは、役に立つとは一体何か、あるいは役に立つかどうかという物差しをどこで使ってよいのか/よくないのかを決めるためにやりとりされるものであり、役に立つかどうか云々というレベルで商業広告と比較しうるものではない。


もちろん、いつでも常に無条件に政治ビラのポスティングが守られるべき、などとは言わない。明らかに暴力的であったり、数による示威的な振舞いがあったりなど、不穏当なやり方があるならば、それは「その暴力的振舞いを根拠として」摘発されるべきである。また、このご時世であるから、共用部分への侵入者によって生活上の危険を感じるなどの場合には、当然遠慮されるべきだとは思う。しかし、地裁判決要旨を見る限り、そのような暴力性などまったくない。*1

と同時に、だからといって商業ビラのポスティングが摘発されても何も言うつもりがない、などというわけでもない。思うに、(1)その権限を持った人による拒否の明示*2、(2)守られない場合、警察による少なくとも一度以上の警告、これら二つの条件を最低限満たした上であるならば、それでも商業ビラのポスティングを継続する場合には逮捕という可能性は、少なくとも否定はしない。ただし、その場合でも、数十日も拘留するなどありえない。基本的には微罪であり、少なくとも初回は注意の上で早期に釈放、というのが行為に見合った対応だろう。(これでも強すぎるような気はするが、大目に見てもせいぜいこの程度のものだろうと思う。)
しかし、逮捕がありえるとしても、そんなことやってる暇があったら、他に仕事はいくらでもあるだろうに、とも思う。僕が自分の住んでいるところにポストされる商業ビラがうっとおしくて、それを摘発しにこいと警察を呼んだときに忙しくて応じてくれないとしても、とりあえずは致し方ないかな、とは思う。てゆーか、かなりうっとおしくても、そもそも警察に通報なんてしない。


街宣車も容認せなあかんくなる(意訳)>についても、黒猫さん自身の意見ではないが、一言。これは、基本的には容認されるべきだと思う。もちろん、いくつかの条件は思いつく。(1)静かにしているべき場所ではなく(たとえば繁華街のすぐそばなどならいい)、(2)あまりに長時間・高頻度ではないならばよいのではないか。ある程度以上については、「騒音が苦痛だからビラにしてくれ」と言うくらいはアリだろう。手段については交渉があっていい。ドアポストじゃなくて集合ポストにしてくれ、という程度の意味で。


商業広告なのか政治的主張なのかの区別がつかないものがある、と考えるならば、多少難しい問題だと思う。しかし、その場合には、「区別がつきにくいから商業ビラもある程度取り締まれない」という話でいい。少なくとも、概念として、政治的主張と商業広告は分けうるし、そこに足場をおいたロジックを通して欲しい。望まないピンクチラシなどを、政治ビラから区別できないがゆえに事実として受忍するのは仕方ないとしても、「受忍範囲として互いに許容しあうべきなのだ」という理屈で受忍させられるのだけは勘弁して欲しい。


追記(2005/12/23):id:swan_slabさんから「でも二重の基準論批判に対して二重の基準論で対抗してもあれかも」というコメントをいただいているのですが、一体どういう意味なのか、理解しかねています。今回の僕のエントリでは、「商業広告は侵襲的であっては意味がないが、政治的主張は侵襲的でなければ意味がない」という、とりあえず今までのところ触れられていない論拠に基づいて二重の基準を擁護しているのですが。

*1:集合ポストではなく、ドアポストに投函したことを問題視する人もいるかもしれない。たとえば、id:fhvbwx氏によるブックマークへのコメントは、それを示唆しているのかもしれない。しかし、なんでドアポストに投函したのかは分からないが、それはともかく、ドアポストであることで過剰に暴力的になるというわけでもなし、とりたてて問題になる論点とも思わない。基本的に僕の主張はそのまま当てはめていいと思う。まぁ、いずれにせよ、高裁判決は「ドアポストではなく集合ポストなら無罪だった」という内容でもないわけだから、もとより本質的な論点ではありえないように思うけども。また、たとえば住人が「どうせいれるなら集合ポストの方にしといてくれ。部外者に奥まで入ってこられるのや嫌だ」と意思表示したのであれば、その程度は聞き入れるべきだろうとも思う。もちろん、この場合でも、警察による逮捕に至るまでには、少なくとも一回以上の警告があってしかるべきだろう。

*2:これは、たとえば管理権者を名乗る人が口頭で抗議するというようなものでは満たせないと考える。たとえば、住宅の持ち主が、自分専用のポストに拒否を明示するステッカーなどを貼るならば、権限を持った人による明示であると明らかであろう。あるいは、マンションの管理組合名によるビラポスティング禁止の張り紙であるならば、そのマンション全体のポストへの商業ビラ投函は拒否可能であっていい。しかし、そもそもその集合住宅の総意かどうか判断しようがない形で拒否をされたとしても(つまり今回のケースの場合)、権限を持つ人間による拒否の明示とはいえないだろうと思う。