モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

mushimoriさんへのお返事

mushimoriのノート」について。いつの間にか十日も経ってたのね。

本文について

  • 「北風と太陽」の比喩は、わけがわかりません。
  • 「妄想を持つ人というのは妄想しかなかったから仕方なくそれを選んでしまった可能性がある」として、だからなんだと言うのでしょうか。むしろ、「それは妄想だ」と立ちふさがる他者がいることこそが、彼がその妄想を選ばない可能性を開くことになるだろうと思いますが。
  • 「別の道を示す」について。
    • 「弱くていいじゃないか」程度の別の道なら、いくらでも示せますね。それで少年が納得するかどうかは別ですが。*1
    • その少年が納得するしかないような、その少年を「決定する」ような道を示すなんて話なら、そんなのそもそも無理でしょう。
    • さらに、示す必要もないでしょう。道を間違っていると言うことと、正しい道を教えることは、別のことですから。両方できると言う人が両方やるのを止めはしませんが、間違っていると思う人が間違っているとだけ言ってはいけない理由もないでしょう。
    • その上で、道が分からないなら、立ち止まればいいんです。人なんか殺す前に。
  • 「他者の内面をそこまで完全なブラックボックスにしてしまう必然性があるんでしょうか」について。
    • 僕らが相手にできるのは、彼が示す様々な言葉や声や態度だけであることを真剣に考えてみる必要があると思います。
    • 分かるとして、いつ、どのような基準で、自分には分かったということが確認できるのでしょうか。分からないことは分からないという前提で、その上で何を言えるかを考える方がよほど誠実だと思いますが。
  • ブラックボックスにしてしまうと、問題解決できない、という話について
    • 問題解決のために、分からないことを分かることにして、何か理論らしきものを捏造しようという話にしかならないでしょう。そういうことをすれば、かえって解決から遠のいていくはずです。
    • 分からないことには、まず分からない、とハッキリ言うべきです。
    • その上で、次のようなことはできるでしょう。その少年に、「殺せば強くなる」は妄想である、とハッキリ言うべきであり、その少年が妄想ではない根拠を示せない限り*2、執拗に問い続けるべきです。第一に、これをやらねばならない。
    • 第二に、仮にそれが妄想であると理解されたならば、なぜ妄想を信じてしまったのかを、彼自身と共に考えていくべきでしょう。社会構造の問題も、そうした共同作業の中から発見されうるかもしれません。しかし、それはあくまでも結果として、です。
    • 現実には、mushimoriさんが言うような「ブラックボックス」の中身を語る言説が巷に溢れています。それがどういう効果を持っているかというと、ブラックボックスの中を本当に明らかにするような努力の一切をジャマしているんです。まず、そういうバカなことをやめるべきでしょう。
  • 「少年と大人では主体としての捉え方を同じくすべきではないのではないか」については、追記3に絡めて。
  • 小泉さんの文章については、「ひでえ」という感想はさておき、その「ひでえ」で何が悪いのか、さっぱり分からん。
    • 「殺人を犯した少年について言えば、mojimojiさんはどんな「信」をその少年に示すことができるわけですか。それができないのであれば、ただ妄想だと暴き立てることはやめていただきたいと思います」と言うわけだが、なんでやめねばならないのだろう。
    • やめねばならん理由なんてないでしょう。間違っていると言うことと、正しい道を示すことは別の話。とりあえず間違っているとだけ言うことはできるし、言うべき。
    • 妄想に変わる別の理念は、妄想を妄想だと理解した後の話でしょう。それは自分で作るものなのですから。
    • 他者はまず、その妄想を妄想だと突きつけなければならないし、他にできることを僕は思いつきません。

追記について

mushimoriさんの立場は、僕がとりあえず賛成しえないところの相対主義そのものです。僕とmushimoriさんとで違うのは、「妄想との付き合い方」でしょう。僕は、妄想に対して、その妄想を「前提とした」対話を拒否し、その妄想の根拠を問う対話に無理やり引きずり込みます。そこから話を始めるしかないからです。たとえば、「障害者自立支援法案を成立させた世の中の方が、より公平で公正な社会になる」という妄想に対しては、そこにある「公正さ」の概念の妄想ぶりを問うこと以外に、何か話されるべきことがあるようには思えません。問題の少年においても、その少年と話す際に、その少年が「殺せば強くなれると思った」と言うならば、その信を徹底的に問う以外に話すべきことがあるとは思いません。

その先に、とりあえず二つの可能性があります。妄想が妄想であるとしたら、なぜそんな妄想を信じるようになったのか、それを「共に」問うていく可能性があります。mushimoriさんが言うようなことは、その時に語るべきことだと思っています。もちろん、妄想を妄想であると認めず、平行線を辿ることもあるでしょう。しかし、これは致し方ないことです。僕らはしつこく、その妄想を妄想である、と突きつけていくしかないでしょう。他者は決定できないのですから。*3

追記2について

僕は、この「追記2」に書かれたような態度こそが、問題の根本原因でさえあるだろう、と考えています。それは、端的に「欺瞞」と言うのだと思いますし、もう少し口当たりの言葉で言えば「処世術」ということになりましょう。一応白状しておくならば、僕自身がそのように考えていたことは、過去にあります。mushimoriさんのように考えれば、幾つかの衝突を回避することで、自分の日常生活をある程度快適にすることができます。とりあえず、自分自身が差し迫った問題を抱えているのでないならば。しかし、問題の根本は、主張内容以前に、主張に対する態度=いい加減さなのですから、遅かれ早かれ、そのいい加減さとこそ対決しなければならなくなるのです。だとすれば、その対決が「今」であってならない理由はないし、遅らせることで何らかのメリットが生じるとも思われません。

追記3について

「「愚民」は「主体」として判断を下しえないということ」ということですが、そこから「だから主体として扱ってはならない」とか、「主体として扱えない」というようなことは帰結しません。むしろ、主体ではないからこそ、主体として扱うことが必要な場面があるのだと考えています。主体として扱われ、にも関わらず主体であるに足る十分な性質を身につけておらず、故にそこには必ず摩擦が生じます。その摩擦なくして、私たちが何かを学ぶということは、およそありえないのではないかと思います。だから、人は、少なくともある程度、主体として扱われるのでなければ、およそ主体「みたいなもの」にさえ、なれないと思います。*4

*1:その程度のことなら、少年も考えたんじゃないかと思うけどね。

*2:むしろ、妄想でないことの根拠が示されたならば、悩むべきは我々の方だ、ということになります。

*3:というよりも、僕らはこれまで、こうした作業を愚直にやってきたんでしょうか?mushimoriさんが追記2に書いたような態度で、他者の妄想を妄想だと断じることもなく、適当に処世術でやり過ごしてきたんじゃないですかね。

*4:と同時に忘れてはならないのは、言ってる僕自身も含めて、誰も十全たる主体ではありえない、ということなんですけども。