モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

mushimoriさんへ

mushimoriのノート」へのお返事。

・・・「人は物語を求め、その中で生きるという前提の根拠はなにか」という質問に対する返答です。

 端的に言うと、「それは我々が言語を所有し、他者との共通了解を言語によって行うからである」ということになるかと思います。

 言語によって語られることというのは、言うまでもないことですが語られる対象そのものではありません。何かを語った時点でそれは実際の事物から様々な要素が捨象され、ある特定の恣意的な意味(コンテクストと言い換えても可)を付されて他者に向かって発話されるわけです。

 そもそも、我々が世界を認識するにあたって、それは言語によって行っています。我々が認識する世界とは言語によって規定された世界、すなわち事実そのものから様々な要素を捨象した上で成り立っている世界なのです。これを「物語」と言ったとして差し支えはないでしょう。

 そういう意味なら、そりゃそうです。しかし、その場合大事なのは、物語を作り変えるルールなんです。僕の立場においては、ポパーの受け売りですけども、反証を突きつけられたら再反証するか、さもなければ物語を作り変える、という態度と、反証逃れによって物語を維持しようとする態度で違いがあると考えています。

 で、妄想が社会的機能を果たしうるという話ですが、そりゃそうですよ。しかし、それを妄想だと暴くことには意味はあります。「太陽の運行は我々の儀式のおかげで成り立っているとか本気で思っている」という妄想と、妄想のままに付き合わねばならないわけではないんですから。

 たとえば、なんらかの理由で、儀式が執り行われなかったとします。それでも太陽はいつもどおりに運行するはずです。そのときに、「儀式は関係なかった」と考えるか「神がとりあえずは怒りを我慢してくださったのだ」と反証逃れするかは、反証に対する誠実さ・物語を改善しようとする気があるかどうかの問題です。実際、それに近い妄想は私たちの生きている日本社会にもかつては存在したわけですが、いまは随分減ってますよね。だから、それは永遠不変のものではなく、変えうるものなんです。そして、変えるための方法があるのであり、簡単に言えば、それが科学を支えている方法でもあります。

「妄想に置き換えうるものは他の妄想だけである」と考える相対主義の立場には僕は組みしません。mushimoriさんが相対主義の立場に立つというならば、その論点での議論は可能でしょう。

しかしながら、そんなことよりも僕が一番分からなかったのは、mojimojiさんが少年の語った動機をあまりに素直に受け取ってしまったことです。少年の具体的心象についてはわからないとしておきながら、少年の語った動機を素直に受け取るのは矛盾しているのではないかと思うのです。

別に矛盾はしていませんよ。少年の言葉を根拠として少年の心の中を僕が知っていると主張しているわけじゃないんですから。それは、少年自身が少年自身の心について語っていることです。その言葉が真実であるならば、少年は「殺すことが強くなることにつながる」ことの理由を説明できるはずです。その説明を僕は求めているのであり、それができないならば「それは妄想だ」と述べるでしょう。そして、それは正しい認識です。その言葉に少年が納得するかどうかは別問題ですが、いずれにせよ、この突きつけは必要な手続でしょう。


僕は元々、ポパーに依拠しつつこういうことを考えていたわけですが、小泉義之氏が似たようなことを書いているのを見つけたので紹介します。

小泉義之「知から信へ」
http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0406/main.cfm

妄想がなんらかの機能を果たすということは社会学的にもちゃんとそういう議論があるんです。しかもそこでは妄想が実質的な力を帯びてしまう、妄想の内部では妄想は妄想ではないわけです。

 そんなことは織り込み済みです。そして僕が言っていることは、それは変わりうるものなんだということなんです。そして、その中に、どのように変わりうる可能性を仕掛けていくのかが僕の関心事なのです。