モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

他者は決定できるか

追記:「knoriさんとこのコメント欄でのやり取りについて」のところ、少年犯罪に関する考えのところは、自分でも急激に不満を感じ始めてきた。何がどう不満なのかよく分かっていないのだけど、とにかく、この考え方ではマズイ、という気がしている。ひとまず、その違和感だけを記しておく。(2005/11/26)


id:mushimoriさんへの応答です。TBもいただいてるし、あちこちで喧嘩も売られているので(笑)*1、それぞれに真面目に応答しておきます。

mushimoriさんのエントリについて。

mushimoriのノート」について。
「木を見て森を見ず」云々は、正直、どうでもよいことです。考慮に入れるべきことを入れてない、という事実を指し示せる比喩でさえあれば、どちらでも構わないのです。

「自分たちはあなた方よりももっと大局的で広い視野で考えているしコストパフォーマンスだけだってこっちの理論の方が上だ」なんて、言うべきだとも思わないし、言えるとも思わない。ただ、相手の主張を聞いた上で、それを本気で信じているならば、トコトン信じてくれ、とは言います。「障害者自立支援法は正しい」と述べるならば、少なくとも、(1)重い障害がある人間は生命に対する権利さえ、厚生労働省の匙加減に委ねられて良いと主張しているのだし、(2)重い障害を持って生まれた者は、生きていることさえ幸運であるなら、それ以上のQOLを要求することは贅沢だと主張しているのだし、(3)障害者をたまたま家族に持った者は、たまたま持たなかった者だったら負う必要のない多大な重荷を背負う義務があると一方的に宣告しているわけです。しかし、こうした隠れた主張は隠したままで、「財源確保のために仕方がないのです」とだけ述べる。ハッキリと言えばいいのです。オマエたちの生きる権利よりも施設職員の雇用が大事だし、私たちの税金がこれ以上増えないことが大事なのだ、と。その税金によって失われるちょっとした贅沢の方が大事なのだ、と。そのように言う勇気はないのに、ただコッソリと殺そうとするのです。主張内容にも反対ですが、何より、その主張と添い遂げる覚悟が見られないことをこそ僕は批判しています。


実は、僕が小泉支持者を「愚民」と呼んだときにも、同じことを述べました。未だに理解されてないようですから、引用とリンクを載せておきます。

この政府を選んだ人々は、その選択がもたらすそれらの結果を見届ける責任がある。殺すな、とは言わない。せめて、政府が殺す人々を、自分が殺す人々として、真剣に見届けよ。殺すなら、そいつの顔を見て殺せ。
愚民とは、殺す相手の顔を見ない者のことである - モジモジ君の日記。みたいな。

mushimoriさんは「自分は愚民だが」とおっしゃってますが、あなたは自分の選択の結果として死ぬ人々がいるとして、それをどうでもよいことで関心がないとおっしゃる人なんでしょうか。そのように自分で認める、ということなんでしょうか?それはそれは、実に勇ましいことではありますね。


さて、次の問題に移りましょう。何かを主張するにあたって「戦略」なるものが必要だとよく言われます。しかし、僕が思うのは、その戦略というものが語られるときに、単に言うべきこと/言いにくいことを言わないで済ませるための迂回路にしかなっていない、ということです。
「面と向かって愚民と言われればヘソを曲げて聞く耳をもたなくなる。だから戦略として拙い」。あり得る批判はせいぜいこんなものでしょうが、僕としてはこんな見解に同意すべき理由は見当たらないので、何がどう拙いのかは何も語られていないも同然なわけです。
以前、僕は、こんなことを書きました。>「社会運動のマーケティングについての覚書 - モジモジ君の日記。みたいな。
僕らは、社会と、個人のつながりをただ指摘するだけで、それに気づかないでいる人や、気づいていながら気づかないフリをしている人*2が、気づかないままではいられないように、ただそのようにしさえすればいい。「あなたは今気づいたし、気づいたことを私は今見て知っていますよ」という関係を相手との間に作ること。大事なことはこれだと思っています。もっとウマイ方法がないとは言いませんが、僕はとりあえず知りませんし、mushimoriさんが示したわけでもないでしょう。

僕自身の取る方法は、まず認識されるべき関係をきちんと記述し、指摘することです。それを含んでいるならばどんな言い方だろうとそれは有効でありえるし、それを含まないならどんなに考え抜かれていようと効果などないでしょう。というのが僕の感触です。「それではダメだと思うから、私は別の方法をやります」とおっしゃられるのは、それは好きにすればいい、と思います。僕も絶対の自信があってやっていることではありません。しかし、その方法ではダメだと他所から口を挟みたいならば、それ相応の根拠をもって論じるべきでしょう。それが拙い、と言うとき、一体どのようなやり方なら拙くないのか、それらはどうやってその効果を比較されたのか、こうした諸々のことを語らないなら、それは「拙い、って言ってみただけ」にしかならないでしょう。これは立派に説得の道であり、別に説得を捨ててるわけではないのですよ。それは説得になってないと言いたいならば、きちんとそれを論じてみせてください。


まとめます。愚民というのは、相手の顔を見ないで殺す者のことです。戦略についてのおしゃべりは、暇つぶしに過ぎません。よって、いろんなやり方で、同じこと(=顔を見よ)が語られればいいのだと僕は思っています。戦略云々の話題というのは、大抵の場合*3、時間の無駄だと思っています。とりわけ、どう工夫してみたところで、相手が聞きたくないことをわざわざ言うのであるからには、余計に大差ないでしょう。(しかし、時間の無駄だと思われる理由について話すことは時間の無駄ではないでしょうから、これはこれでいいのかもしれませんけどね。)

knoriさんとこのコメント欄でのやり取りについて

弱さを克服したくて殺した - knori」のコメント欄にて。

おっしゃることは分かります。しかし「強迫的な拘泥」をせざるを得ない状況があるとしたらどうでしょうか。殺される側の理屈というのはいわば「常識的」なことであって、それが加害少年にも通じるなら別に問題はないわけです。しかしそれが通じないところで事件が起こっているから問題だと思うのですよ。その意味ではmojimojiさんのコメントも同様で、「殺すことと強くなることは関係ない」とその少年に説明すればすべてが事足りるというものでもないでしょう。問題はまさにその関係ないものを関係付けてしまったところにあるのですから。それを「妄想」と呼ぶのは勝手ですが、しかしそれはマスコミが馬鹿の一つ覚えのように繰り返している「心の闇」と大して違いはありません。それは妄想だ、と断定したところでその少年が人を殺さなくなるわけではないからです。なるほどそれは「妄想」なのかもしれません。では少年はどうしてそんな「妄想」にとらわれ、そして実行してしまったのですか。「そんなことは分からないよ」とおっしゃるかもしれませんが、それならば最初から黙っていて欲しい、余計な言説を増やして少年の「現実」をミスリードするようなことはやめて欲しいと思うのです。

僕の感想は、まったく逆ですね。その少年に対しては、「殺すことと強くなることは関係ない」ということ以外に言うべきことはないと思います。
確認しておくべきことは、「妄想」と「心の闇」は別のものだということです。「妄想」とは、「殺すことによって強くなる」という命題のことです。「心の闇」とは、それを信じるに至った理由のことです。この理由など、どうでもよいのです。「心の闇」などどうでもよいのです。そんなの、憶測に憶測を重ねたところで、確かな見解など出てきっこないし、出てきたところで「それが確かな見解だ」と証すものはありません。ただ、私たちに確実に分かることは、その「妄想」に根拠がないということだけです。このことは絶対に正しい。少なくとも、今のところは正しい。少なくとも、誰かがその「妄想」の根拠を実際に述べてみせて、それを他の誰も(すぐには)否定できないという状況になるまでは、その「妄想」には根拠はないのです。

knoriさんもmojimojiさんも少年の理屈はおかしいと語っているだけで、そんなおかしい理屈で人を殺してしまったのはなぜかということからは目をそらしているでしょう。それがダメだと僕は言っているのです。

逆です。mushimoriさんの方こそが、「心の闇」の具体的な説明を求めることによって、「妄想」が妄想であるという端的な事実から目を反らしているだけです。なぜ信じ込んでしまったのか。これは、究極的にはその少年が孤独に向き合う他はない問題です。私たちにはその少年の心は分からないのですから。ただ、その少年が語り始めたときに、誰かに聞いて欲しいと願ったとき、それを受け止める以外のことはできないのですよ。

mushimoriさんは、何か、一所懸命考えたら「心の闇」の中身が具体的に分かるかのように語られているわけですが、そもそもなんでそんなことが可能なんか考えたことがあるんでしょうか?それこそ、「心の闇」の中身を具体的に語ることを商売にしている不届きものが沢山いるわけで、「消費財にするな」とはそちらに向けて言うべきことでしょう。

いまの社会が「奴隷を殺す」こと以外のまともな「大人のなり方」を示せているかというとそれは疑問だし、少年の強迫観念を外に向かう暴力ではなくて、内面的葛藤としてうまく複雑化させるために、つまり、カッコつける生き方をもう一度考え直す時間というのをどうやったら提供しうるでしょうか。そういうことを抜きにして、「お前は間違ってんのよ」と言うことがどれほど残酷であり、現状放置であり、無責任なことかと思うわけです。

「殺すことで強くなれると思った」と述べる少年に対し、「殺すことが強くなるなんてことはないんだ」とだけ言いながらその少年に寄り添う社会こそ、僕は素晴らしい社会だと思います。それ以上のことはできないのであり、そして余計なことをしていないからです。「心の闇」は、本人が孤独に向き合いながら考えるべき領域であり、他人は安易に踏み込んではならないのであり、本人が自らをどのような存在にしたいのかを創造するための領域であるべきだと、僕は思っています。(というより、次の記事を読んで、そう思いました。>http://www.bund.org/opinion/1083-5.htm

mushimoriさんの誤解の根源

思うに、AがBに働きかけるときに、Aのやり方次第で、Bの理想的な反応が引き出せるような、そういう成功の秘訣がどこかにあるのだ、という前提が見られるように思います。愚民論における「もっとマシな戦略」を要求する態度がそうですし、この少年に対しても、何か頑張ったら「心の闇」が解明できると信じているかのようです。このような前提は根本的に間違っているでしょう。
そんなことは述べていない、とおっしゃるつもりならお尋ねしましょう。事実を指し示すこと、それでは足りないと言うならば、一体何があれば足りるのでしょうか?mushimoriさんは、それを示すべきなのですよ。

ブックマークのコメントについて

ついでに、次のコメントにも答えておきます。

自分も障害者になるかもしれない、あるいは自分にも迷惑がかかるという出発点はけして間違いではないと思う
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20051115/p3

そういうことを考えてみることは別にかまわないし、そう考えてみたら対障害者施策への支出に納得できるというなら、別に止めはしません。*4しかし、これは、対障害者施策の負担が公的に担われるべき根拠と同じではありません。そのことは断言しておきます。

ただ生きていることは肯定されるべきだし、そのために必要なものは、可能なら(可能だ)、みんなで分け合えばよい。すべての人間の生が無条件に肯定されること。それだけでいい。と僕は考えています。僕がその障害を負うことになるかどうかとは無関係なところで肯定されるべきだ、と思います。もし、自分が障害者になる可能性を根拠とするなら、そういう可能性が皆無、あるいはそうではなくとも極めて少ないならば、「だから支出には納得しない」という判断の余地を残すからです。そのように判断する人に、mushimoriさんはどのように応答するつもりなのでしょうか?(ここでもやはり、他者は決定できませんから、判断の余地があるならば、拠出はしないことに賛成する人は存在しうるでしょう。)

*1:誤解されると嫌なので明記しておきますが、僕自身はやり取りをたのしんでいるというか、触発されて自分の中で明確になったことがいろいろあるので、実りは多いことによって十分報われています。(追記:ちょっとカッコつけすぎですね。少々ムッときたのは事実ですが(笑)、返事を書いた結果それなりに実り多かったので気が済んだ、ということです。一度通らねばならない問題提起を受けたのだろうとは思っています。)

*2:「自己欺瞞」(byサルトル)ですね。

*3:例外的に考慮が可能なのは、具体的に狙いを定めた相手がいる場合には、相手のパーソナリティによってやり方を変えうるでしょう。しかし、その場合でも、大して考える余地はないと思いますけどね。

*4:僕も障害者になるかもしれないから対障害者施策への支出はちゃんとやって欲しいという気持ちは、実は僕にはあるでしょう。しかし、だからといって、それは根拠ではないのです。