モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

障害者自立支援法について反論する・その2

ted21centuryさんからお返事をいただきました。まず、どうもありがとうございました。

障害者自立支援法に関する正確な議論は書いたペーパーや出版物のリファレンスを示すと簡単なのは承知しています。このblogの匿名性故に本音で書ける貴重さを失いたくはありませんので,それは踏みとどまっています。
http://blog.goo.ne.jp/ted21century/e/b2398ac37a5ff36d1b26aaf7d8bda9d4

前回も、今回も、反論と位置づけながらも、実は気分としては役所に陳情しているような感じです。また、ブログにあんまり時間を割かれてもアレですから、お返事についてはご随意になさってください。お返事はなくとも、大事な論点はきっと伝わると思いますので。

その上で申し上げるのですが、エントリを見る限り、書かれた出版物を拝見させていただいたとして解消するような問題点ではないと思います。問題は、経済学的な分析の中にではなく、経済学的分析を支えている倫理的・社会学的な前提の方にこそあるからです。これらを前提としてなされた分析である限り、そこには指摘させていただいているような問題がやはり残っているだろうと思います。以下の諸点について、考慮に入れてもらえれば大変嬉しく思います。

1.死者が出ないことは厚生行政の成功か?

(代表的障害者?に対応)

マスメディアの報道姿勢は,全ての障害者が長時間介護を必要としているかのように錯覚させるものです。「配慮」がなされるかの懸念はもっともですが,来年度,障害者自立支援法の不備によって死人が出るか否かで批判が妥当であったかの証明がなされます。乱暴で無責任なように思われるかもしれませんが,その反語が真実であり,厚生行政に対するそれくらいの信頼はあります。

私は自立支援法案への賛成者を「人殺し」呼ばわりしてるくらいですから、この点についてはきちんと答える責任があるかと思います。死人が出るかどうかを基準になさるのであれば、それはあまりにも行政に対して甘すぎる基準でしょう。運動側は「殺す気か」と言い続けてきたことは事実です。しかし、それを杓子定規に受け取る前に、この人たちが一体どうやって生き延びてきたのか、特に支援費が導入される以前に、ということを考えるべきです。
かつて、行政の介護へのプレゼンスは、一日24時間にはまったく足りない時代が長く続きました。その間彼らを生かし続けたのは、家族介護であり、ボランティアの介護です。しかもこの場合、「仕事やプライベートの都合を考えて、合間に介護」という形態には到底なりえません。介護がなければ即、命に関わります。介護保障の問題に直面した多くの人が、プライベートの何かを優先したときに「この人の介護をする人が誰もいない」という状況に置かれ、少なからず介護を優先させるという場面に出くわします。そういうところで、「無理」をして介護を担っていきます。障害者を家族にもったことが理由で、個人としてのキャリアを諦めた人もたくさんいます。障害者に出会ってしまったことがきっかけで、個人としてのキャリアを放棄する覚悟を決めた人もたくさんいます。そのように自分を犠牲にする選択をした人たちを、バカだとかお人よしだとか言う人もいるでしょうけど、そうでないならば多くの障害者は死んだのであり、これまでの厚生行政の失敗は明らかだと言えたでしょう。彼らの自己犠牲の結果として、多くの障害者が死なずに生き延びてきました。*1
今回も、行政が介護へのプレゼンスを低下させた場合でも、それを肩代わりする個人が必ず出てくるでしょう。自腹を切ってそれを支えようとする人が出てくるでしょう。しかし、その結果として死者が出なかった場合に、それをもって「死んでいないから、死ぬ、という批判は妥当ではなかったんですね」とおっしゃるならば、それはあまりに酷いのではないでしょうか。
それと、実際問題として、ALSなんかでは、既に死んでいます。人工呼吸器装着が必要になった場合に、いつの数字かちょっと分かりませんが、7割の人がそれを拒否してそのままお亡くなりになるそうです(立岩真也ALS 不動の身体と息する機械』)。その多くが、人工呼吸器の痰の吸引に関わる家族介護の過酷さを知った上で、自らの介護に家族を縛り付けることを恐れてのものだ、と報告されています。ALSの場合は、人工呼吸器を「つけない」という選択によって、事実上の安楽死が行われている場合があります。介護支援が減れば、この方面での死者は増えると思いますが、しかしこれは「本人の選択」だとみなされているので、自立支援法案が殺したとはおそらくみなされないでしょう。これまで、介護保障の不足が殺したとはこれまでもみなされなかったのと同じように。それも妥当だとは思えません。
他の重度障害の場合は、とりあえず生きているので、本人の意思によって合法的に死ぬ機会はそう多くありませんが、しかし、「外に出たいが我慢する」「風呂に入りたいが我慢する」といった自主規制を強いられる障害者は決して少なくありません。家族介護が要請されている場所では、自分の自由を主張することが、即ち家族の自由を奪うことにつながるために、人間としてごくごく当然していいだろうと思われるようなささやかな行動についてさえ自主規制すること、せざるをえないことがしばしばあります。ALSは生きることそのものを自主規制するケースがあるわけですが、そこまではいかなくとも、生きる上での基本的な機能を自主規制するケースは、これまでもあったし、これからもあるでしょう。そして、障害者の自主規制によって、とりあえず現場が回っているという場合には、「死者は出ていないから厚生行政に問題はない」と、やはりこれまで同様に言われるのではないでしょうか。
ALSについては死者が出ても「個人の選択」と言ってしまえる状況がある以上、厚生行政の責任だとはみなされないでしょう。今までもそうだったように。そして、他の障害も含めて全体として死者が出ない場合でも、それは家族、ボランティア、障害者、これら関係三者の誰かが、その個有の生において相当大きな犠牲を払うことによって死なないで済んでいるだけなのですが、これらも厚生行政の問題点だとはみなされないでしょう。「死者が出るかどうか」というハードルは、明らかに、厚生行政側にとって都合のよすぎる低いハードルです。(「殺す気か!」と煽っているのは運動側、という面はもちろんありますが、僕はこれは「誇張ではない」と思います。)

2.家族の多様性は負担配分の多様性を意味しない

(重度身体障害者のホームヘルプにどれだけ金がかかるのか に対応)

施設予算が維持されている理由の一つは,義務教育と同じような問題です。少子化で児童数が減っているのに小中学校教員数は減っていない。教員給与は補助金によってまかなわれている。障害者施設でも既存の施設維持に経常費がかかっているわけです。

施設を今すぐ閉じることができない、というのは、それはそういう面があるでしょう。しかし、障害者も今すぐ生活をたたむわけにはいかないわけです。施設の経常費を削れないとおっしゃるならば、ヘルパー予算はなぜ削れるのか。
つまり、こういうことです。ここで考えねばならないのはここでの優先順位のつけ方であり、そもそも優先順位をどのようにつけたのかが一切語られていないという事実です。実際には優先順位をつけているのに、あたかもそこには支出されるべき固有の理由があるので支出されるのだというような語り口が用いられます。

グローバル・スタンダードの話題は少々それすぎに感じました。それを持ち出すのであれば,「家族」の多様性が認識されるようになってきたので「個人−家族−地域社会」との関係が標準化できないことを指摘しておきます。

ここで指摘したいのは、「個人−家族−地域社会」の関係が標準化できないことは、「個人−家族−地域社会」の負担配分の関係が標準化できない・してはならないことを意味しない、ということです。むしろ、関係が標準化できないからこそ、負担配分の関係を標準化すべき理由になります。
障害者と家族の関係は多様でしょう。同居していたり、一人暮らししていたり、一人暮らししていても頻繁に家族と交流する人もいれば、ほとんど家族のことなど思い出さず好き勝手やる人もいます。介護保障に関して政府がきちんと負担するのであれば、これら多様な対家族関係はすべて可能になります。まさに個人−家族関係の多様化に対応したものになるでしょう。他方、現状のような制度ではどうなるか。家族と同居していれば、家族介護が求められます。一人暮らしして別家計にしなければ、家族介護を当てにされる分だけ介護保障を削られることになります。こういう状況では、同居したいと考えてもそれが困難になります。良好な関係を持ちえるはずの家族において、介護負担の過酷さゆえに家族の関係が破壊されるケースもあるでしょう。
紹介した「国連障害者権利条約に対して議長が提案する項目」の第17条において、「家族と共に暮らす権利」、「施設を選ばない権利」、「地域で暮らす権利」が要請されているのは、「家族と共に暮らさねばならない」、「施設で暮らしてはならない」、「地域で暮らさねばならない」と考えるからではありません。それらについて「選べる」ために、それらの権利が要請されているのです。家族の多様性が認識されるというだけでなく、それらの多様性の中から個々人が選ぶという面まで考慮するならば、多様性を支える負担配分システムの方はむしろ標準化すべきことになってきます。その意味で、グローバルスタンダードの話は、決してズレた話ではありません。

3.精神障害者32条問題)と軽度知的障害者、その他

知的障害児・者(正確には親)サイドの意見表明として,一般にはあまり知られていない事実があります。 2004年前半に障害当事者団体と厚生労働省との対話が複数回もたれました。介護保険と障害者福祉の統合を巡る内容です。合計8団体がテーブルについたのですが,知的障害児・者の団体だけは意見集約のときに消極的賛成をしました。若年世代が被保険者かつ受給者になれて,財源が安定した制度になることに魅力を感じたからです。

これについては、僕も伝え聞いています。これについては詳述しませんが一つだけ事実を述べておきます。障害者の自立生活運動にとって、最初のハードルはむしろ「家族」でした。その意味で、障害をもつ本人と障害者の家族の意向にズレが生じることはしばしばあることです。そして、そのズレをどのように読み取ればいいのかについては、そうしたズレについての考察の蓄積を踏まえる必要があるでしょう。「若年世代が被保険者かつ受給者になれて,財源が安定した制度になることに魅力を感じたからです」と断定するのは拙速だ、と僕は見ます。

家族が負担することを当然視する考えの根拠には民法の扶養義務があります。・・・・・障害者だけが世帯分離されているならばともかくも同一生計であるならば,家族の扶養義務は逃れようがありません。そもそも民法を改正しろという意見があることは承知しています。

民法を改正しろ」という意見については、「承知」しているが、「黙殺」しているわけですよね。キツイ言い方ですいません。しかし、これはとてもとても重大な論点、障害者介護を巡る最重要の論点の一つであるのに、そのような扱いで済ませていいのでしょうか、と思います。家族介護を状況に応じて求めるような対応が、むしろ家族の多様性を(どころかしばしば家族関係そのものを)破壊する、ということは先に述べました。ですから、民法改正を仮にするとして、その理念にそった制度設計をするべきだと僕は思いますが、その選択肢を一番最初に考慮から外し、現状の異論が噴出している扶養義務にあわせて制度設計してしまうのは大変危険なことではないでしょうか。

4.まとめ

書き方が悪かったかもしれませんが,就業実態調査などを参照すれば障害者の約半数は仕事を持っていることがわかりますし,日本における給与所得者の比率を勘案すれば現在無職の人であっても障害厚生年金をもらって十分に暮らせている人がかなりの割合になることを指摘したまでです。こちらは例外的な存在では決してありません。

前回のエントリでも述べましたように、数の多寡は問題ではありません。そもそも、その制度の中で生きることが困難になる人々が存在するのが問題なのですから。
ついでに申し上げれば、障害厚生年金で十分暮らせている人からは、対障害者サービスの自己負担を求めつつ、老齢厚生年金等で十分暮らせている人には負担させないわけですよね。こうした負担のあり方は、障害というものを社会の中にどのように位置づけるかという理念と深く関わるもので、見過ごすことはできません。障害があるということによって、障害がない人にはない負担が、それも結構大きな負担があるのだという構造そのものが、障害者差別を支える大きな要因の一つです*2。ゆえに、障害に起因して必要とされるサービスには自己負担を求めないというルールは非常に重要な意味をもっています。その場合、所得が十分にある障害者からは、「所得が十分にあるから」という理由でもって負担を求めるべきであると僕は思います。

順序逆になりましたが,私の意見に対して”papaさんという方が「木を見て森を見ていない」というコメント”をしたことにモジモジさんは同意されています。私は自立支援法を出発点に大局的な国家のあり方について世代間公平を含めて議論すべきという立場ですから,森の話をしているのであって,木の枝振りを細かく扱っているつもりはありません。その意味では心外だと感じています。

「木を見て森を見ていない」については、間違いでした。正しくは、「森を見て木を見ていない」と言うべきでした。大局的・戦略的という言い方がよくなされます。これは、ある砦を落とすとか、そういう大きな目標がある場合には大事な視点です。この場合には、個々の兵士の犠牲などは小さな問題でしょう。しかし、政府が行う政策の目的は、個々人の生活そのものをどう支えるかであるはずです。であるならば、個々人の生活そのものの実体から遊離した大局観や戦略がありえようはずもないと思っています。

*1:こうした力を引き出してきた要因の一つに、当の障害者の生への強い意志があり、それが多くの人を巻き込んで一つの流れを作り出した、というような状況がもちろんありました。しかし、裏を返せば、そうした強烈な個性を持った障害者を除いては、介護を得て自立生活するなんてのは、到底ありえなかったということでもあります。普通の障害者には、最低限の生命維持以上の介護を得られず、社会参加などする機会もなく、一生を終えた人が沢山いるのでしょう。

*2:それだけではない、というのはもちろんのことですが