モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

タバコ問題

最近はやっているようなので、ちょっと言及。正直、タバコの二次被害では相当辟易しているので、冷静に議論するのは正直難しい。

しかし、これは思いつき程度のことなのだけど、依存性のある嗜好品が、とりわけ生存・労働環境の厳しいひとになおさらストレス緩和ツールとして必要とされる、そして、そのおかげを、他の市民はこうむっている、という側面もあると思う。ストレスのつよい職場において、「それがあることで働くことができるが副作用のあるもの」というのはタバコ・アルコールに限らずいろいろあるんで、そして、そういうものは通例、労働者が、自主的に、自分のために、とりいれているんだけど、こういうものの、副作用・被害というのは、実は非公式の、そうした職場が成り立つ必要経費なわけで、つまり精神的な、ストレス面でのコストの末端へのしわ寄せがここに存在するんで、のまずにやってられない仕事をやらせるために酒を与えておいて相手が中毒したら、ときどき降りてきて、だからきみらは自制心がない、というような説教したり偏見を新たにしたりするのはどうか。なにごとも原因・理由があって、決して個人の心や意志の強さの問題に還元してはいけないわけで、むしろ考えるべきは、ある限度を超えた依存が生じる社会的原因を根絶することのほうなんじゃないかという気もする。
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20051002/1128182234


賛成したいところもあるが、かなり重大な留保をせざるをえないように思う。一番疑問に思うのは、まずタバコがストレス緩和ツールであるとはいかなる意味でなのかということ。これには想像するに二つあって、ニコチンの生理学的作用によってストレスが緩和されるという経路と「タバコはストレスを緩和するものです」というイメージが流通していることによってそんな気になってしまう、という経路の二つがありえると思う。生理学的経路と社会学的経路とでも言おうか。で、あまり詳しくはないのだが、第一の経路はそもそも存在しないか、少なくとも確認されてないんじゃないかと思う。すると残るのは第二の経路だけだ。で、第二の経路だけならば、それを言説として批判し、解体していくことくらいはするべきじゃないかと思う。

というのは、jounoさん経由で読んだ「喫煙者を救え!」などは、やはり重い。とすれば、タバコの広告なんかについてはもっと規制してもいいんじゃないか。jounoさんが言うようなストレスフルな社会構造がそのままだとしても(もちろん、これは変えていくべきだが、それとは関係なく)、それを過度に強調するのは「死の商人」(by 岩城)の思う壺ではないか。ストレス解消手段としても、タバコより弊害の少ない別の手段は結構あるわけだし、そういうソフトな戦略は必要だと思う。*1

それと、いかにタバコ中毒に同情するとしても、吸殻のポイ捨てについては同情の余地はない。秋葉原でポイ捨て禁止条例だったか、できたというニュースが以前あったけど、そういう面での規制はまだまだ足りないとやはり思う。歩きタバコについても、やはり問題が大きいように思う。大阪では人ゴミの中で歩きタバコする人が多いように思うのだが、これには本当に辟易する。喫煙者をやり過ごすために少し停止したりするのだが、場所によっては次から次にやってくるので、結局我慢して前に進むしかないという状況もしばしばだ。とりわけ、灰を落とされたりヤキをいれられたりといった危険は無視できない。自分も小さいときに腕に灰を落とされたが、かすかにではあるが、25年経った今も跡はハッキリ確認できるくらいに残ってる。

結論としては、jounoさんが言うようなストレスの社会的要因に対するアプローチだけでは不十分で、仮に自己責任倫理を採用しないとしても、タバコそのもののありように介入するアプローチの必要性はやはりあるように思う。そして、もちろんこうした課題はタバコに限らないし、生じている弊害の程度に応じて、アルコールでもカフェインでも何らかの提案があっていいように思う。*2

*1:先日、昼飯を抜いてタバコを吸っているという学生がおった。いくらストレス緩和とはいえメシ抜きの方がよほど体への弊害は大きいわけで、こういうのを見ると、中毒性の弊害についてはもう少し大きく取り上げる必要があると思う。

*2:アルコールについても、線路への転落死が相次いで以降、駅のホームでは売らないということになったわけだしね。