モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

きはむ氏への応答

いくつかTBをいただいているが、一応の返答をしておく。いろいろ誤解が混じっているようだが、とりあえず言いたいことは二つ。

  1. きはむ氏の選択している生き方は僕の言う正義を必要としないので、その時点で議論は終了していると言える。
  2. というわけで、個人の責任をきはむ氏が認めないのは構わないが、しかし、個人の責任を問うことを普遍的な意味において「無理」とまで言い切るならその根拠を述べねばならない。

第一の論点について

僕が考えていることは、自分に向けられた暴力に対して「嫌だ」と言う代わりに「不正だ」と述べることが必要だと思う場合には、私たちの振る舞いの全体はある種の論理的性質を満たさなければならない、ということである。その性質を僕は「正義」と名づけている。実力による拒絶可能性ではなく私たちの振舞いや言説の意味内容において、その論理的性質としての批判可能性を求めたい場合に要求されるのが「正義」である。

だから、自分や自分の大切な何かが傷つけられたり破壊されたりしたとき、「ああ、悲しい」「ああ、悔しい」と述べるだけであるならば、別に正義など気にしないで生きていて構わない。というより、それはどうしようもない。しかし、「これは不正である」と述べたいならば、正義について考えなければならない。そういう話である。*1


で、きはむ氏は先日TBいただいたエントリで次のように述べている。

私の行動によって生を脅かされたという理由で私に危害を加えようとやって来た者がいたならば、私はその攻撃を甘受しようとは思わず、徹底して回避しようとするだろう。私にとって最も重要なのは責任や正義ではなく、自らの生存と利益であるからだ。重要なのは、私がどうしたいか、どうしたくないか、あるいは、他人がどうしたいか、どうしたくないか、こうした点だけである。
http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-136.html

このように考えているのであれば、僕からきはむ氏に対して述べることは何もない。対抗暴力がきはむ氏の元を訪れることを覚悟してくれればいいし、訪れたときには最善の抵抗を試みていただければいい。そして、きはむ氏は僕がなしているような議論の土俵からこの時点で降りているのである。幸運を祈る。と述べるだけである。

第二の論点について

で、降りていると判断したから、とりあえず返事することはなかったわけだが、今日いただいたTBだと、降りているのやらいないのやら、よく分からんことになっている。

こうした言説が何故ダメかと言えば、社会の問題を個人の責任に還元してしまう無理を許してしまうからであって、何故そうなりがちかと言えば、結局こうした言説の主張者もまた、「自分の行為の結果は自分で引き受ける」という無駄に潔い自己責任倫理にとらわれ続けているからである。
http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-139.html

「個人の責任を認めない」と述べるなら、それは別に構わない。というより、仕方がない。第一の論点について述べたように、後は幸運を祈るだけだ。しかし、彼は認めないではなく、「そのような責任の還元は無理だ」と述べているわけだから、こうなると話は変わってくる。で、端的に聞いてみたい。なぜ無理なのか。

いずれにせよ社会を形作っているのは個々の人間である。社会を決定するのは人間である。そして、その帰結についても責任があると述べうる文脈は存在する。もちろん、決定を行う人間は社会的に決定された存在であり、彼の行う決定も、彼自身を形作る社会のあり方に影響されているだろう。ゆえに、個々人の責任という概念には、社会科学的には一定の留保がつけられることになる。しかし、このようなことを考えることと、個々人の主体性というものをまったく否定してしまうこととは別の話である。人間存在が主体であるように感じられたり客体であるように感じられたり、これらは感覚としても両方あることであり、だから我々の言説の中にも、人を主体として扱うモードと客体として扱うモードが混在している。

だから、僕はこれを規約として扱っている。詳しく述べる余裕はないが、正義を要求する場合はそれに対応する責任を認めねばならず、責任を認めない場合には正義を要求できない、そしてどちらを選ぶかは好きにするしかない、というのがとりあえずの立場である。しかし、規約として扱うまでもなく、とにかく無理だと述べたいなら、それについては根拠を述べてもらわねば困るし、述べられないなら、きはむ氏から僕への批判はすべて無意味だということになる。


関連するが、社会の問題を個人の責任に還元する議論において、その場合の責任の中身が「自己責任倫理である」と決め付けているのは錯誤であろう。社会を決定した責任を負っていると述べることと、私的所有原理および現行の社会における分配ルールを所与とした上でその中で自己の身に発生することに責任を負っていると述べることはまったく異なる。前者の立場では、責任があるとしても、その責任において現行の社会におけるルールそのものを変えるように働きかけることも選択肢に入ってくるが、後者の立場にはそれはないからである。その意味で、僕と新自由主義の間の争点とは「何が個人の責任か」というものである、と言い換えることもできる。きはむ氏はそもそも「個人の責任などない」と言っているわけだから、だったら(既に述べたように)その根拠を示さねばならない。


つまり、きはむ氏の今回のエントリは、「みんな、個人の責任を「なにかしら」想定している点で同じである」と述べているに過ぎない。そんな当たり前のことはどうでもいいので、「個人の責任を考えることが無理」とするきはむ氏の立場の根拠について述べて欲しい。

*1:その意味で、これは選択の問題。選択されないならば、人間の社会は無秩序な世界になるほかないだろうが、それは仕方がないと思われる。ただ、ヒドイ目にあった多くの人が、悲しい悔しいだけでなく、正不正を口にする事実によって、人々のそうした傾向性をまずは信頼して議論を考えるという戦略をとっている。