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人々は必然的に愚民であるか

ひとまず愚民呼ばわりの行儀の悪さには目をつぶっていただくとして(我ながら勝手だな)、それでも自分の意図をごり押しして言わせていただけば、僕は愚民が愚民でなくなる可能性に賭けている。小泉のように愚民を愚民のままに動員する不誠実さを拒否し、愚民に愚民であると呼びかける(=愚民であるなと呼びかける)ことによって、愚民ではない人々による民主主義を期待する。こう述べると、鬼が数千人くらい笑いそうだ。しかし、それはそう簡単に非現実的な夢物語として切って捨てて良いものだろうか?


たとえば、「愚民が愚民でなくなるために」のブックマークに、『「庶民が愚民なのはしょうがない。知識人のように暇ではないのだ」という初期小林よしのりの名言を思い出す』というコメントが寄せられている(id:chipherさんによる)。さらに、の「小泉こそが根源的な愚民思想の持ち主である」ブックマークでは、『民の過半が愚かでなかったことなどない。等しい愚かさがあるか、様々な愚かさがあるかだけだ。』というコメントが寄せられている(id:synonymousさんによる)。短いコメントなので多少曖昧さは残るが、大衆の愚かさは「仕方のないもの」と観念する思考パターンが垣間見える。そして、こうした見解にすぐさまうなづく人は多いんじゃないかと思う。少なくとも、10年前の僕なら、うなづいただろうとは思う。
(追記10/01:引用したお二方への直接の批判という意図はない。彼らの言いたいことが「必然的な愚かさ」に関わるものなのかも、50字という短いコメントだけでは判断できない。ただ、僕のように楽観的に集合的理性?の成長を信じているわけでは多分ないだろうとは思う。とりあえず、コメントに示唆されて、お二人とは関係のない仮想的を勝手に作って論じている、ということで以下の部分はご理解ください。)


しかし、今は明確に違和感を感じる。これはそれほど自明なことだろうか。これから先もそうであり続けるだろうか。とりあえず、我々の歴史的な経験を思い出してみよう。わずか二百年足らず前、日本に住む人々の多くが文字を読めなかった。しかし、今や識字率はほぼ100%である。教育水準は、総じて向上してきた。また、学問分野を問わず、その最先端においては知識は拡大し、思想は深められ、我々は百年前の知の巨人たちが必死で獲得した成果を、教科書を通じて学習することが可能になっている。経済学で言うならば、今世紀初頭には最先端の研究テーマであった経済理論のエッセンスは、現在では少し真面目な大学生ならきちんとマスター可能な内容としてテキスト化されている。90年代初頭には謎であった日本の構造不況についても、クルーグマン流動性の罠の議論をきっかけに、多くの理論的知見がもたらされている。これもまた、少し真面目な経済学部学生なら理解可能な、手の届くものになっている。実は、我々が直感するより遥かに速いスピードで、我々の平均的な知的水準は向上しているし、その裾野も広がっているのではないか。我々の経験は、それを証しているように思える。*1


こうしたことから、僕は、僕の後輩の世代が、子どもの世代が、孫の世代が、もっともっと充実した知見に基づいて物を考えることができるような、そういう未来を想像することはそんなに的外れではない気がしている。そう思えないですか?

*1:最近の若い世代の学力低下が言われている。しかし、絶対数が減っているのだから、個々の大学にやってくる学生の力の低下を言われても比較のしようがないように思える。また、東大のようなトップクラスの大学にくる学生での学力低下も言われるが、過去の学生ができたことができなくなった代わりにできるようになったことはないのだろうか?そこには明白な後退があるのだろうか?50年前の優秀な東大経済学部生と、現在のバカになったといわれる東大経済学部学生を比べたとき、現在不況を説明する経済理論をよく理解しているのはどちらなんだろう?与えられた知的環境から学ぶ力は落ちている可能性はあるとしても、現在の方がより恵まれた環境で学んでいることのアドバンテージを上回るものだろうか、という疑問がある。