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体罰とは教師の無能さの証しである

しばらく前に、僕も注目して見ていた『女王の教室』が最終回を迎えた。8回あたりからどうにもおかしな展開だったので言及する気力を失ってはいたのだが、昨日、現役教師1000人アンケートをネタに教育を論じるバラエティ番組が放送されていて、そこでのやり取りにも触発されて何か書かなくてはという気になった。口をぬぐってしまうのもズルイなあというのもあるし、少し書いてみよう。(少しじゃなくなりましたが。)


まず、『女王の教室』について。鬼教師・真矢のとった数々の非道な振る舞いをまず思い起こす。実力主義を盾にとった個人攻撃、逆らう生徒への体罰・精神的虐待、反抗する生徒同士を離反させる権謀術数、裏切りを誘発し子どもたちの絆をズタズタにしていく数々の手法、その徹底した悪役ぶりに僕はまず魅せられたわけだが、その段階で考えていたことは、「最終的に真矢がよい教師だった、というオチだけはありえない」ということだった。基本的な考え方として、目的が手段を正当化するということはありえない。当然、この真矢の徹底した非道な振る舞いについても、いかなる目的があろうとも正当化することはできない。

ゆえに僕の興味は次の一点にあった。「真矢が良い教師だった」といく結論だけはありえない。とすれば、どういう決着を見るのだろうか。その答え次第ではとても面白いものが見れるかも、と期待してしまった。「テレビドラマに何を期待してるんだ」と言われればそうかもしれない。しかし、イメージダウンのリスクも取りながら出演を受けた天海祐希。公式サイトの掲示板に寄せられる数々の非難を隠しもせずに掲載し続けた堂々たる態度。*1期待したくもなるではないか。やはり甘いか。そうかそうか。いずれにせよ、僕の期待は見事に裏切られたわけで、ドラマは一番安易な結末に落ち着いてしまった。その意味で、公式サイトBBSに寄せられた「不謹慎だ」という非難は、まったく正しかったのである。ここに僕の不明を詫びたい。あなた達こそが正しかった。


断固として、体罰は認められない。それは肯定されるべきではない。一応、僕なりに体罰の定義をしてみると、「指導に従わせるを目的に肉体的苦痛を加えること」である。殴る蹴るは当然のことながら、正座・廊下に立たせる、あるいは授業中トイレに行かせないといったことも含まれる。それにしても、「指導に従わせるために」行使される暴力とは、実に倒錯した話である。指導とは、私が正しい見解だと考えるものを生徒に示し、その理解をきっかけとして従うように促すことである。それは本質的に言語的コミュニケーションであり、その「意味」が理解されなければ指導にはなりえない。それを拳で伝えることができないとは言わない。しかし、それは言語によって伝達可能な事柄である。なぜ拳の出る幕があるのか。

「拳で伝えることができないとは言わない」と書いた。それはつまりこうである。拳の一撃を受けたとき、私たちはその拳によって表現される文脈を、拳を振るわれた側が思考によって補い、その拳の意味を作成することによって、そしてそれが教師の意図であると想定することによって、結果的には拳が意図した教育目的を達することはありえる。しかしどうだろう。生徒が頭の中で努力して補うことのできる文脈というものを、拳でしか伝えることのできない教師とは、果たして職業人として誇っていいことなんだろうか。拳で思いが伝わったなどといい気になっているべきではない。ここで起こっている事態とは、教師の無能さを生徒の理性が補っているという事態である。これは教師が深く恥じ入るべき事態なのである。同じことは、確実に言語的コミュニケーションによって達成しうることであるし、言語的コミュニケーションで達成できないならば、殴ったところでどうにもならない。*2

さて、常に正しい文脈に従って拳が振るわれていてさえ、それは教師の無能を証明するものである。次に考えるべきは、教師も間違いうるという当然の事実によって、誤った文脈で拳が振るわれる可能性である。このことの弊害は改めて指摘するまでもないだろう。理不尽な暴力を受け、それに対して反論は許されない。拳は最終決着として繰り出される。僕自身、事実誤認によって教師に殴られたことが数度ある。今だに覚えている。その教師の名も覚えている。*3述べられなかった釈明。このようなささいなことにおいてさえ、道理が踏みにじられたことへのショックとして、僕は鮮明に記憶している。
言語的コミュニケーションにおいても同様のことは起こりうるから、言語でさえあれば良いというわけではない。教師の高圧的な叱責に対して、明確に論理によって反対できる生徒はそう多くない。我々は言語的に叱責する場合でさえ、生徒の異議申し立ての道を開くように常に意識しなければならない。それでも完璧ではありえない。しかし、それでも次のことは言えるだろう。言語においてはテクニックの巧拙の問題として現れるこの問題は、拳の使用においては必然的に起こる。

どうしようもない確信犯の生徒が、授業を妨害しつつ教室に居座り続けるような事態、そういう極限状況ではどうするのだ。すぐそのように言われるだろう。簡単である。教室からまず退去させよ。退去しないならば、実力を持って教室から退去させる。それは体罰とは異なる。繰り替えそう。体罰とは、指導を目的に「苦痛を与えること」である。そして体罰は、生徒をそこに留めおくことである。彼から肉体的な自由を奪い、苦痛を与えること。これが体罰である。どうしても現場で決着をつけられない生徒の反抗に対しては、まず教室から取り除き、他の生徒の学習権を確保した上で、彼に対する説得の場=彼自身の申し開きの場を作る。これ以外にどうできるというのだろう。そして大事なことは、苦痛を与える必要はどこにもない、ということである。時間はかかるかもしれないが、それは致し方ないことである。彼(あるいは彼女かもしれないが)に分からせること。分からせるのでなければ意味がないのであるから、分かるまで「懲戒」は続く。そして言わずもがなのことを付け加えるならば、こうした困難な事態において、殴ったからといって分からせることは不可能である。


昨日のバラエティ番組では、少数派ながら、3割近い教師が体罰肯定していた。そんな奴らは即刻職を辞すべきであると言った体罰否定派の教員がいたが、まったくその通りである。その弊害への想像力もなく、自らの無能への反省もなく、生徒に威厳を示すために暴力をよこせと言う恥知らずな連中は教壇に立つべきではない。教育の場において、暴力の出る幕などない。

*1:対照的に、木村拓也でコケた『エンジン!』の公式サイトは非常に酷かったそうだ(「「エンジン」HP 都合のいい意見は掲載するのか」)。児童養護施設を美化、里親を貶める内容の表現に対して度重なる抗議の書き込みをしたが、ことごとく没にされ、読者投稿欄は番組礼賛記事で埋め尽くされたという。ちなみに、今回のエントリからは少しそれるが、児童養護施設と里親の問題についても、ここを読んでくれている方々の関心を促したい。リンク先のsidoさんの「子どもに養護施設ではなく里親家庭を」という主張は大事な論点であるが、多くの人にとって死角となっている問題だろうと思う。是非、sidoさんの新しいブログの数々のエントリを見て、頭の中の問題系に加えて欲しい。個人的には、障害者解放運動の「障害者に収容施設ではなく自立生活を」という主張とも重なるなぁと思っている。

*2:14:08追記:もう一つ、生徒に、そのように文脈を補足するだけの能力が身についていない場合、この暴力は単なる暴力にしかならないことも考えるべきだろう。

*3:同じようなことを、昨日のバラエティ番組の中で、関根勤が述べていた。