モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

瀕死の議会制民主主義

今回、奇妙なめぐり合わせで議席を獲得した社民党保坂展人氏が、議論すること、なされる政策の説明を求めることの重要性を、簡潔に整理してくれている。

法案審議もスピードアップすると与党幹部は威勢がいい。この背景には、国会審議がどのような役割をしてきたかに関する理解がきわめて浅い人々が多いということもある。たとえば、民事再生法という破産手続きに関わる法律を私は2時間にわたって質問した経験がある。「労働者の権利」に関わる個々具体的なケースを想定して、法案提出者である法務省民事局の解釈を質した。

新法の条文に則した国会審議の記録は、行政や司法の現場で使われる。民事再生法の解釈をめぐる裁判所の判例が確定するまでは、この議事録が参照されることも多い。児童虐待防止法も、国会審議の分厚い記録が本になり、虐待防止にかかわる現場で使われた。

私が席を置いてきた時期までの国会は、重要法案の審議には、こうして時間をかけてきた。これまで、10時間、15時間かけてきた審議を、1時間か2時間の超速でやると考えてみよう。国会審議の質は限りなく低下し、官僚依存が高まるに違いない。国会議員もまともに質問準備などに時間をさかなくなり、短時間の質問時間で野党が法案の矛盾点を正すことも出来ない。
国会審議の超速は議会崩壊への道」@保坂展人のどこどこ日記

国会で審議をしないということは、法案にありうべき矛盾点について検討されないということである。「やってみなければわからない」などと無責任な言い方をする連中がいるが、やってみなければわからないことについて議論をしてはならない理由はない。むしろ、やってみなければわからないからこそ、徹底的に議論しなければならないのである。たとえば医師が治療方針を決めるにあたっては、同僚医師たちとのカンファレンスを行い、そこで方針選択の理由を説明し、同僚からの批判に応答するという手続きを経る。そのような手続きを経ることで、やってみなければわからないことでもよりよい結果を得られそうな策を検討するのであり、またうまくいかなかったときに何が悪かったのかを検討するための材料を残すのである。それが科学的であるということであり、理性的であるということだ。国政に関わる重要問題も当然同様にされるべきだろう。「ダラダラやっているより速い方がいい――単純な暴論が「世論」として渦巻く」結果として生じるのは、あてずっぽうの政策に私たちの生活を委ねることである。

さらに、審議を軽視するとは、法案が持っている本質的な曖昧さについて、そこに具体的な内容を与えないままに行政が運用するということでもある。運用とは具体的現実に対してなされるものである。この曖昧さは現実の適用においては埋められなければならない。誰が埋めるのか。言うまでもなく担当する官僚たちであり、次にこれら官僚に影響力を行使できる議員たちである。国会審議を骨抜きにするということは、政府と与党に恣意的な行政を許すことと同義である。これこそが改革されるべきとされた官僚支配の最たるものではないのか。族議員支配の最悪の形態ではないのか。(実際、小泉政権というのは、財務省権限を最大限に強化し、財務省を通じて自分たちの権益を実現しようとするものであると解釈する以外にどうしようもないものだ。)


政策が理解できなくても、とりあえずは仕方がない。しかし、彼らが恣意的に行使しうる権力を欲していること、そのためにあなたがたの票を貪ったのだということ、今まさに国会審議を骨抜きにするべく、各種委員会の長を独占し、審議のスピードアップを主張しているのだということ。こうしたことのすべてが、私たちの置かれた状況が危機的であることを証している。