モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

理由なき投票という通り魔的暴力

道端で見知らぬ誰かに殴り倒されること。これを理不尽ではないという人はいないだろう。では他方、自らを殺すような政策を標榜する政権に支持を与え、その実現に寄与すること。これと「道端で見知らぬ誰かを殴り倒すこと」との違いを考えてみよう。


結論からいって、違いなどないのである。国家権力が作動し、誰かからその生の基盤たる重要な資源を奪い去り、放置すること。それによってその人の生を危機に陥れること。これは、通りすがりにその人を殴り倒すのと同じことである。さらに、その理由さえ述べられないこと。これはまったく通り魔的暴力に他ならない。国家とは基本的には暴力行使装置であり、暴力行使のありようを決定するシステムが少々変わったものである、というくらいの違いしかない。このシステムを、「理由なく」動かすのだとすれば、それは通り魔といくらも変わらない。通り魔はいくらか自分の手を汚すだけマシだとさえ言えるかもしれない。そこでは、通り魔は暴力の主体であり、暴力への反作用(対抗暴力)を自ら引き受けるつもりくらいはあるのだろうから。

国家は存在する。そして、何事かを行う。そのような組織の主権者である以上、好むと好まざるとに関わらず、我々はその組織が振るう暴力の主体である。そこに責任が生じるというより、その行使者であるという事実が端的にある、ということだろう。そのように行使される暴力の反作用を受ける覚悟くらいは、しておくべきだろう。


ただし、国家権力の行使が常に通り魔的暴力でしかありえないわけではない。そこに小さな希望がある。通り魔的暴力とそうでないものを分けるのは、その行使の理由であり、その理由が体系化されるかどうかという点にある。理由が体系化されることによって、私たちが行う暴力行使は一応の一貫した理由をもちうるし、批判可能にもなる。つまりこういうことだ。国家権力の行使を単なる暴力にしてしまうならば、そこで行われるコミュニケーションは各人が持っている暴力の応酬にしかならないだろう。そのような不毛さを逃れたいならば、我々は暴力行使の理由について言語的なコミュニケーションをしなければならない。それが「説明する」ということである。逆にいえば、そのような説明する意思がない人たちは、この世界におけるコミュニケーションは暴力の応酬でしかありえないと述べているに等しい。そのことに気づいているかどうかは別にして。


結局、次のような勘違いがあるということだ。国家権力という暴力行使を非難する足場を認めなくても、直接的暴力を非難する足場はちゃんとある、という勘違い。他人の生の基盤を奪いながら、自らの生を奪おうとする者はちゃっかりと非難しうるという勘違い。愚民が拠ってたつ基盤とは、この勘違いに他ならない。