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政治における多様性・新自由主義などいらない

多様であることが即ちよいことである、と僕は考えない。というと語弊があるかもしれない。正確に言えば、多様性とは何の多様性なのか、ということが問題にされねばならない。いつまでも同じようなレベルでの多様性でよいのか、という問いは大事だ。一言で言うならば、僕は政治的多様性の中に、新自由主義の居場所を認めるつもりはない。このように述べると、おそらく多くの人が僕の主張をいぶかしむだろう。ならば、僕の考える政治的多様性とは何なのか。*1


僕にとって、社会とは、その中に住む人すべてを生かすように編成されて、初めて正しい社会と言える。障害者をはじめ、あらゆるタイプの人たちが、ちゃんとその社会の中で生きることができ、そしてそれぞれの人生を享受することができる。そのように編成されていない社会を僕は認めない。翻って考えるならば、新自由主義は、弱者の居場所をその社会の中に残さない。本質的に、優生思想的なものなのである。こう考えるならば、新自由主義を認める余地など、一片も残らない。

もういい加減に、命のやり取りが争点になるような政治的多様性を卒業できないものか。われわれの社会は。われわれが必要とする多様性とは、すべての人が生きられる社会を「どのように」実現するかというレベルでの多様性であるべきであり、ある人の生命を否定するような政策*2など、最初からお話にならないものとして、すべての国会議員が全員一致でNOというような、そういうレベルで議論をしてくれないものか。

人の命と生活を基準にする議員と、そういうものを簡単に否定して恥じない議員が混在するという「多様性」はゴメン蒙りたい。今回の小泉政権に象徴されるような思想が、政治的多様性の中で存在しているべきだとは、僕はまったく思わない。


我々は、多くのことをもはや論外のこととして、絶対君主制であるとか、宗教的独裁であるとか、そうした体制を朽ち果てた思想として捨ててきたではないか。独裁制や寡頭制、そして民主制といった多様な政治思想の中から、民主制が生き残った。そして、民主制の枠組みの中で、さらに自由至上主義的な政治思想と福祉国家的な政治思想がまた鬩ぎあっているわけだ。我々は、ある一つの問題系における政治的多様性止揚することによって、ようやく次のステップに進めるのだ。今、現に問題になっている問題系に対する多様性は、早々に収束して解決されてしまってかまわない。その問題系における多様性など、なくなってしまってかまわない。その先に、さらに深められたレベルでの多様性を私たちは発見していけばいいのだから。

*1:今回のエントリは、swan_slabさんの「選挙結果への自己総括〜反省会」に受けてのもの。読むと、僕でも真っ当で穏当な総括だと思うのだが、どうしても引っかかるものが残る。それで、こういう試論をあげてみた。バンドワゴンとか、アンダードッグとか、そういうレベルで選挙を見る視点自体を解体した方がいいんじゃないか、とどうしても思う。多様な主張のそれぞれの、その中身に即して一つ一つの思想を吟味し、廃棄されるべきか否かを内在的に考える視点を手放してはいけないという気がしてる。

*2:言うまでもなく、障害者自立支援法案を含む。