モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

愚民が愚民でなくなる可能性のために

前回のエントリだが、さっそく次のように誤読されている。


反自民ブログに見られる、ある傾向」@ti-landmark.com

驚くほど凡庸だが、反論すべき点をあげるなら、「愚民とは、ある一定の正解を知らない者のことを述べているのではない」「無根拠に、大衆を愚民ではないと断定されるべきではない」という二点になるだろう。

第一の点。一つ前のエントリで既に書いたことだが、僕は、選択を誤る可能性を明確に指摘している。だから僕の選択が誤りである可能性を認める。その上で僕が愚民と呼ぶのは、その選択を誤ったかどうかを確認する意思を持たない者のことである。政権を選んだ後、関心を失い、政府が誰を殺すのか(あるいは殺さないのか)を見届けようとしない者。政府がなすことの責任を、己の責任として引き受ける気のない者。こうした者を愚民と呼んでいるのである。小泉支持者だろうと反小泉支持者だろうと、基準は変わらない。主権者であることを都合よく忘れる者のことを、重ねて言うが、断固として僕は愚民と呼ぶ。

その意味で、一定の正解を知らない者のことを愚民と述べているわけではない。そもそも僕は何が正解か知らない。しかし、僕は理由に基づいて選んだ。小泉支持者もそうであるというなら、その理由を示せばいい。その理由は既に論破されているものでしかなく、己の不勉強をさらすだけのものになる可能性が高いと思うが、そうならない可能性もまたある。僕をぐうの音も出ないような、そういう論拠をきちんと出せばいいのではないか。それを出さずに、ただただ愚民と呼ぶなと言うだけなら、およそ批判をするなと言っているに過ぎない。批判されない権利など、誰にもないのだ。
少なくともいえることは、僕は僕が支持した人々がこれから何をなすのか、目を離さずに見張り、彼(彼女)のなすことを僕の責任として引き受ける気がある、ということだ。僕が選んだ人々がおかしなことを言うならば、僕は僕の選択が誤っていたことを認識するだろうし、必要ならそのように述べるだろう。


第二点。人々が愚民であるかないかは、アプリオリに答えを出せるものではない。しかし、明らかに言えそうなことは、この政権が過去4年間になしたことは明白であるにも関わらず、その明白な問題に誰一人まともに答えたわけでないにも関わらず、何か熱に浮かされたように「郵政民営化」を叫んでいるだけの候補に期待を託したという事実である。支持と支持する理由をつなぐものもなく、支持と支持した責任をつなぐものもなく、ただ個人の自由で選んだのだからそれを尊重せよとだけ囀る連中を、僕はやはり愚民と呼ぶ。

愚民と呼ばれたくなければ、愚民と呼ぶなというだけではまったく不足である。愚民ではないことを、あなた自身の態度と言葉で証せ。あなたが小泉を支持したという事実ではなく、理由が示されなければならない。障害者自立支援法案、郵政民営化法案、イラク戦争への支持、自民党改憲案、そうしたもろもろの中の、何についてどのように考え、その結果として支持するという理由を、きちんと説明せよ。そして、政権と自身の選択を、その理由によって擁護せよ。擁護できるものならば。

象徴的なのが次のセリフである。

自分の意見と異なる者は「馬鹿」で、だから道理が通らないのだ、とするのは、傲慢ではないか?
ちょうど、売れない画家が「自分の絵が売れないのは絵が悪いからではない、芸術を理解できない庶民が悪いのだ」と嘯く様に酷似している。

われわれの関係とは、画家とその客なのであるよ。この人の頭の中では。*1評価される者とする者を分け、都合よく自らを評価する者の側に置くのであるわけだ。実に稚拙なレトリックである。われわれがしていることは、お互いの描いた絵のどちらが優れているかの論争であり、対等な立場で、意見を戦わせるべき位置にいるのである。
その上で僕が述べていることを言い直せば次のようになる。オマエの絵の方がすばらしいというならば、その主張を全力で擁護しろ。後は絵に任せるではなく、その絵と共に生きろ。そういうことである。絵は描いたときのままで残るかもしれないが、オマエが選んだ政権はお前の手を離れて何をしでかすのか、いまだ確定していないのだから。


およそ、政権がなすことを自らの責任として引き受けるつもりで投票した人は、小泉支持者の中には皆無だと思う。そう断定する。断定されたくなければ先の問いに答えて欲しいわけだが、誰も答えられるわけはなかろうと思うので、そう断定したまま先に進む。

愚民が愚民であるままで、世の中がよくなるなどと、そんなことはありえない。適当に叩いたキーボードが文章を綴ることがないように、適当に材料を放り込んで加熱しただけのものが食べるに耐える料理になることはないように、政府に権限を与える者が理性を持たなければ政府がまともになることはない。確かに、民主党が、今回の小泉と同じように、愚民を愚民のままで動員するような「賢い」選挙戦術を取ればよかったのかもしれないが、そんなことは僕が考えることではないと思っている。愚民が愚民でなくなるのでなければ、この世界はどうにもならんだろう。また、愚民が愚民でしかありえないという思想こそ、根源的な愚民思想である。世界を変えるためには、愚民を愚民であることを発見することからしか話は始まらないだろう。だから、僕は僕が示した根拠に基づいて、このような人々を愚民と呼ぶ。反論は歓迎する。反論するということこそが、己の責任として選択の結果を引き受ける人々となることであり、愚民でなくなるということなのだ。僕はその可能性に賭ける。

*1:この人だけではないがね。たとえば「売れない芸人」@on the ground。誰でも思いつきそうなレトリックだもんなぁ。